武蔵野中央公園の歴史を解説!戦闘機工場だった?

武蔵野中央公園map

【親子でリラックス】吉祥寺の武蔵野中央公園の魅力]でもご紹介した武蔵野中央公園は、東側の「井の頭恩賜公園」、西側の「小金井公園」のちょうど真ん中あたりに位置していて、広大な「原っぱ広場」や、「スポーツ広場」、テニスコート、遊具広場、バーベキュー広場、ゲートボール場等が整備されていて、市民の方々が気軽に運動できるレクリエーション拠点とです。

球技はNGの公園が多い中で、ここにある「スポーツ広場」は球技がOKなので、休日にはボール遊びをする人の姿が数多くみられ、近隣には乳幼児向け施設の武蔵野市立「0123はらっぱ」もあるので、まだ小さなお子さんでも安心して遊ばせることができます。

春には桜が咲き、子どもを遊ばせながら桜を眺めるのにも最適な、家族連れの笑い声が絶えないこの公園が、かつては戦闘機を製造する巨大軍需工場があり、米軍による大規模な空襲で多くの犠牲者が出た戦災跡地でもあることを、皆さんはご存じでしょうか?

目次

武蔵野中央公園の歴史|武蔵野中央公園は戦闘機工場だった

都立武蔵野中央公園の歴史

公園の片隅にあるレリーフ「都立武蔵野中央公園の歴史」の、冒頭の記述を見てみましょう。

都立武蔵野中央公園の歴史

武蔵野は月の入るべき山もなし、草より出でて草にこそ入れ(古歌)

この地は、かつて小楢や櫟、野草が生い茂る宏大な武蔵野台地の一角であった、承応三年(1645年)に玉川上水が完成し、その分水を受け、西久保城山町(現港区芝)、関村(現練馬区関町)、上保谷村(現保谷市)等から移り住んだ開拓農民によって開墾され、以来二百数十年余の間この一帯は西窪村および関前村と呼ばれていた。

その後明治22年には周辺の境村、吉祥寺村、井口新田飛地と合併して武蔵野村が誕生し、昭和3年には武蔵野町となった。

緑が美しいのどかな畑地であったこの地は、昭和13年、中島飛行機株式会社が、本公園の敷地を含む畑地66万平方メートルに大規模な工場を建設したことにより、時代の荒波に巻き込まれることになった。

(以下略)

中島飛行機株式会社は、1917年(大正6年)から1945年(昭和20年)まで存在した日本の航空機・航空エンジンメーカーです。

エンジンや機体の開発を独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え持ち、太平洋戦争の終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メーカーでした。

1938年(昭和13年) 4月、中島飛行機株式会社は主に陸軍向けのエンジン組み立て工場として、この土地に「武蔵野製作所」を開設。

続けて1941年(昭和16年)11月には、「武蔵野製作所」の西隣りに新たに壁を設けて、海軍向けのエンジン組み立て工場として「多摩製作所」を開設。

1943年(昭和18年)11月には、 「武蔵野製作所」と「多摩製作所」を合併して新たに「武蔵製作所」として、その工場への物資輸送のため、国鉄「武蔵境」駅から、工場への物資輸送のための引き込み線が敷設されました。

当時、国内で最新鋭の設備を誇る工場であったことから、当然のことながら米軍の空爆の標的となり、太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)11月から終戦までの間に計9回の空襲を受け、工場関係者をはじめ、周辺住民も多数犠牲となり、工場は徹底的に破壊されてしまいました。

空襲前後

昭和20年(1945年)8月15日の終戦後は、中島飛行機株は航空機の生産はもとより研究も禁止され、また軍需産業に進出できないよう12社に解体され、工場の跡地は野球場・運動場や住宅地などに利用されたほか、進駐軍に接収されて「グリーンパーク米軍宿舎」になりました。

その後、「グリーンパーク米軍宿舎」は1971年(昭和46年)に全面返還が決定し、、1973年(昭和48年)に東京都に全面返還されました。

返還決定以降、跡地利用の検討が行われ、1977年(昭和52年)に米軍宿舎の建物を解体し、1989年(平成元年)に「都立武蔵野中央公園」が開園しました。

中島飛行機の栄枯盛衰|武蔵野中央公園は戦闘機工場だった

一式戦闘機「隼」
一式戦闘機「隼」

米国のライト兄弟が1903年(明治36年)に有人動力飛行に成功してまだ間もない1917年(大正6年)、若きエンジニア中島知久平が「民間の力で航空機産業を育成したい」という大きな志を抱いて、群馬県新田郡尾島町(現群馬県太田市、中島自身の出生地)に「飛行機研究所」を設立しました。

この「飛行機研究所」は「日本飛行機製作所」と改称され、さらに「中島飛行機製作所」を経て1931年(昭和6年)12月15日に「中島飛行機株式会社」となりました。

1918年(大正7年)には帝国陸軍向けの中島初の国産航空機である中島式一型1号機が完成し、1919年(大正8年)には中島式四型6号機が完全な飛行に成功し、陸軍から中島式五型20機を受注しました。

これは民間メーカーにとって日本初の航空機受注であり、晴れて中島飛行機は航空機メーカーとして軌道に乗り、以後企業規模を拡大し日本最大の航空機・航空エンジンメーカーとなっていきました。

その後も日本陸海軍の軍需をメインに各種の軍用機を開発・生産し、陸軍航空部隊の歴代主力戦闘機となった九一式戦闘機、九七式戦闘機、一式戦闘機「隼」、四式戦闘機「疾風」といった著名機や、従来の日本軍戦闘機とは異なる欧米志向の意欲作である二式戦闘機「鍾馗」や、本格的な双発大型機である一〇〇式重爆撃機「呑龍」を世に送り出しました。

また同社は、機体だけではなくエンジンメーカーとしても大手で、九七式戦闘機に搭載された「寿(ハ1)」、一式戦闘機「隼」や零式艦上戦闘機(ゼロ戦)に搭載された「榮(ハ25)」、四式戦闘機「疾風」や「紫電改」に搭載された「誉(ハ45)」などの航空機用エンジンも開発・生産しました。

太平洋戦争末期の日本本土空襲では主要攻撃目標とされ、多くの工場は戦略爆撃で破壊され、さらに壊滅を免れるための疎開作業で生産は停滞しましたが、1945年(昭和20年)には第一軍需工廠となり、事実上の国営企業となって計29,925機の航空機を生産して敗戦を迎えました。

戦後は、GHQによって航空機の生産はもとより研究も禁止され、また軍需産業に進出できないよう12社に解体されて、中島飛行機製作所としての歴史を閉じることとなってしまいました。

memo

GHQ

第二次世界大戦終結に伴うポツダム宣言を執行するために日本で占領政策を実施した「連合国軍最高司令官総司令部」。

英語名「General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers」の頭字語である「GHQ」や「進駐軍」という通称が用いられた。

最高責任者は、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサー。

中島飛行機から富士重工へ、国民車「スバル」の誕生|武蔵野中央公園は戦闘機工場だった

SUBARU360
SUBARU360

戦後、中島飛行機株式会社は社名を「富士産業株式会社」へ変更しましたが、GHQの財閥解体の対象となり工場毎に12社に分割されてしまいました。

その後、分割された12社中の5社である富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車輛、東京富士産業が共同出資して、1953年(昭和28年)に航空機生産を事業目的とする新会社「富士重工業株式会社」が誕生しました。

まもなく小型自動車の開発が進められ、試作車には「すばる」の名が冠せられました。

現在でも使用されている丸の中に6つの星が輝くSUBARUのエンブレム「六連星」は、この「5社が集まって1つの大きな会社になった」ことを示しています。

SUBARUのエンブレム「六連星」
SUBARUのエンブレム「六連星」

そして、日本では自動車がまだ手に届かない憧れだった時代の1958年(昭和33年)5月、『国民車』構想を実現した初めてのクルマとして「SUBARU 360」が誕生。

フレームレス・モノコック構造、強化プラスチック素材の採用など、航空機メーカーのDNAを感じさせる独自の取り組みによって不可能だと言われていた国民車の実現に大きく貢献した「SUBARU 360」は、その独特の形状のために「テントウムシ」と呼ばれ、1970年(昭和45年)5月の生産終了まで、10年以上にわたり絶大な人気を博しました。

その後も富士重工は、元航空技術者たちが自動車開発に携わってきたという歴史から、航空機に通じる機能性・合理性優先で、既成概念にとらわれないユニークなメカニズムを特徴とする「レガシィ」「インプレッサ」「フォレスター」などの名車を世に送り出してきました。

そして、富士重工業の代名詞として「スバル」の名が定着したことから、2017年(平成29年)4月1日に「株式会社SUBARU」へ社名変更しました。

まとめ|武蔵野中央公園は戦闘機工場だった

親子の笑い声が絶えない、平和の象徴のような公園が、かつては戦闘機を作る軍需工場で、空襲によって多くの方が亡くなった戦災跡地だったことを、今回の調査で初めて知ることができ、「平和」の尊さを改めて感じることができました。

また、かつては戦闘機を作っていた会社が、戦後の解体や再合同という紆余曲折を経て国民車「SUBARU 360」を誕生させたことも、平和な世の中になったからだと灌漑深い思いがします。

様々な顔を持つ吉祥寺の街には、色々な歴史を持つ施設やプレイスがまだまだたくさんありそうなので、これからも気になるスポットの歴史を調べてご紹介していきたいと思います。

住所東京都武蔵野市八幡町二丁目
電話番号0422-54-1884(武蔵野中央公園サービスセンター)
開園日常時開園(サービスセンター及び各施設は年末年始は休業)
入園料無料(一部有料施設あり)
面積100,898.20平米
駐輪場無料駐輪場あり
駐車場有料駐車場あり
アクセスJR中央線「三鷹駅」北口または「吉祥寺」駅北」から、西武柳沢駅行きバス→ 「武蔵野中央公園」下車 徒歩1分
西武新宿線「西武柳沢」駅から、「三鷹」駅行きまたは「吉祥寺」駅行きバス→「武蔵野中央公園」下車 徒歩1分
西武新宿線「西武柳沢」駅から徒歩約20分
西武新宿線「東伏見」駅から徒歩約20分
JR中央線・京王井の頭線「吉祥寺」駅から徒歩約35分

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