井の頭公園の中の動物園「井の頭自然文化園」には、2016年に亡くなるまでの62年間にわたってゾウの「はな子」がいました。
遠足などで同園を訪れたことのある方なら、ゾウ舎にいた「はな子」をよく覚えているのではないでしょうか。
日本で飼育されたゾウの長寿記録を更新し、長い間子どもたちの人気者でもあった「はな子」は、どうして井の頭公園に来てくれたのでしょうか?
今回は「はな子」について徹底的に調べて、ご紹介していきます。
吉祥寺の歴史については前回の記事をご覧ください。
誕生から来日まで|井の頭公園にゾウのはな子が来た
「はな子」は、1947年(昭和22年)春頃にタイで生まれ「カチャー」と名付けられ、バンコクの農園で暮らしていました。
1945年(昭和20年)まで続いた太平洋戦争の戦時下の日本では、「空襲で動物園の檻が壊され、逃げ出したら危険だ」という理由で、ライオンやトラなどの猛獣やゾウが殺処分されたため、終戦時に日本国内に残っていたゾウは名古屋市の東山動植物園の2頭のみでした。
そんな時に、元タイ国軍事顧問で実業家のソムアン・サラサス氏が、「戦争で傷ついた日本の子どもたちの心を癒すために、ゾウを見せてあげたい」と思い、私財を投じて発起人となって、「カチャー」が日本に贈られることとなりました。
1949年(昭和23年)9月2日、船で神戸港に到着した2歳半の「カチャー」は、同時期にインドのネール首相から贈られたアジアゾウの「インディラ」と共に、貨物列車とトラックを使って上野動物園にやってきました。
当時は、戦後の「ゾウブーム」とも言える時期で、東京のみならず日本中の動物園でゾウが渇望されていたそうです。
「平和の使者」として人々に喜ばれた「カチャー」は、公募によって決まった新しい名前「はな子」と名付けられましたが、その由来は戦時中に殺処分された上野動物園のゾウ「花子」の名を継いだからだそうです。
1950年(昭和24年)から、「はな子」と「インディラ」は移動動物園で日本各地を訪れました。
「インディラ」が列車等で全国を回ったのに対して、子ゾウだった「はな子」は都内を中心に東京近郊を回りました。
その中には井の頭自然文化園も含まれていたのですが、そこで「はな子」を見た武蔵野市や三鷹市から井の頭自然文化園での「はな子」の飼育を求める声が上がり、1954年(昭和29年)3月5日に上野動物園から井の頭自然文化園に移されてきました。
山川さんとの出会い|井の頭公園にゾウのはな子が来た
瞬く間に井の頭自然文化園の人気者となった「はな子」ですが、1956年(昭和31年)にゾウ舎に侵入した男性を死亡させる事故を起こし、さらに4年後の1960年(昭和35年)にも飼育員を踏み殺す事故を起こしたため、「殺人ゾウ」の烙印を押されて鎖につながれるようになり、エサをほとんど食べずアバラ骨が浮き出るほどやせ細り、ストレスで4本のうち3本の歯を失なってしまったそうです。
そんな時に「はな子」の新しい飼育係として、山川清蔵さんがやってきました。
山川さんは、人間への敵意をむき出しにギラギラと睨み付けてくる「はな子」に対して決して怯むことなく向かい合い、着任してわずか4日後には「はな子」の鎖を外し、そこからまさにつきっきりで世話を始めました。
山川さんの仕事は「はな子」の世話だけではなく、朝「はな子」との一時を持った後は、兼任で担当していた他の動物たちの世話へと走り、それが終わると休憩も取らずに「はな子」の元へと走り戻り、バナナやリンゴを与えながら「はな子」に触れて話しかけ続けました。
そんな日々が続く中で、「はな子」がは少しずつ心を開くようになり、時には山川さんの手を舐めるようにもなりましたが、そこまでの関係を築くまでには6年もの月日が流れていたそうです。
山川さんは、定年を迎えるまでの30年間「はな子」に寄り添い、定年から5年後にがんで亡くなります。
そして山川さん亡き後には、山川さんの息子さんが飼育員の一人として「はな子」の世話をしていたそうです。
晩年~最期|井の頭公園にゾウのはな子が来た
その後、穏やかな日々を過ごしながら暮らしてきた「はな子」は、2013年(平成15年)には日本で飼育されたゾウの長寿記録を更新し、2004年(平成16年)に「来園50周年」を迎えました。
井の頭自然文化園では、高齢になった「はな子」の健康管理のために、カロリーがきちんと計算された質の高い食事を用意し、歯が一本しかない「はな子」のためにバナナの皮を一本ずつ剥き、野菜を煮て、大好きなおにぎりを手作業で握っていました。
そしてついに、2016年(平成28年)5月26日、69年の生涯を終えたのですが、この手厚い世話があったからこそ、69歳まで生きることができたのではないでしょうか。
「はな子」の死因は、当初は老衰によるものと発表されましたが、翌27日の解剖で死因は呼吸不全と判明しました。
9月3日には「お別れ会」が開かれ、2,800人が訪れ献花したそうです。
吉祥寺駅前に銅像が完成|井の頭公園にゾウのはな子が来た
「はな子」が亡くなってすぐに、子どものころから「はな子」を慕っていた地域の方々や武蔵野市によって[吉祥寺「はな子」像設置実行委員会]が結成されました。
ここには、武蔵野市や近隣の方々だけにとどまらず日本全国から募金が寄せられ、2017年(平成29年)5月5日、吉祥寺駅前北口広場に「はな子」の銅像が完成し、除幕式が行われました。
原型を制作した美術家の笛田亜希氏は武蔵野市生まれで、幼い頃から井の頭公園や文化園に通い「物心つく前から、身近なところにはな子がいた」という方です。
「造るならば、はな子が元気な頃のこのポーズと決めていた」という、片足を上げている「あいさつをする時のポーズ」に決めて、少しでも実際の「はな子」に近づけたいと修正作業を繰り返したということです。
まとめ|井の頭公園にゾウのはな子が来た
今でも「はな子」の命日の5月26日には、毎年園内の動物慰霊碑前に献花台が設けられ、来場者が花やリンゴ、バナナ、メッセージカードなどを供えているそうです。
その知名度は計り知れず、吉祥寺駅前の「はな子」の銅像は、吉祥寺駅前の待ち合わせ場所として親しまれています。
「はな子」を日本に贈ってくれたタイ国の実業家ソムアン・サラサス氏は、その後も日本とは深い交流を続け、1964年(昭和39年)の東京五輪にはタイ国の柔道チームの団長として来日したそうです。
1993年(平成5年)には「はな子」と四十数年ぶりの再会を果たし、「お互いに年をとったな」「ずいぶん長い間がんばってきたね」と話しかけたそうです。
ソムアン氏は1996年(平成8年)に84歳で亡くなりますが、長男のウクリッドさんは日本に在住しており、「はな子」の銅像の除幕式に参加したそうです。
戦後間もない1949年(昭和24年)にはるばる日本にやってきた2歳半の子ゾウは、半世紀以上にわたって地域の人気者として子どもたちの心を癒してくれただけではなく、日本とタイの友好の架け橋にもなってくれていたんですね。