吉祥寺の神社「武蔵野八幡宮」を紹介!パワースポットとしての効果とは?

本サイトの「吉祥寺のパワースポット|運気があがるおすすめ3選」をご覧になった方から「それぞれのスポットについて、もっと詳しく知りたい」というご要望が届きました。

そこで、ご紹介した3スポットの中でも最も歴史がある「武蔵野八幡宮」に改めて参詣して、境内にある様々な建物やご由緒について調べて来ましたので、詳しいレポートをご紹介します。

目次

「武蔵野八幡宮」の歴史とご由緒

伝承によると創建は785年(延暦8年)までさかのぼり、坂上田村麻呂が宇佐八幡の分霊を現在の水道橋駅付近に祀ったといわれています。

江戸時代に「明暦の大火」によって本郷元町(現:東京都文京区本郷一丁目、水道橋駅付近)にあった「諏訪山吉祥寺」とその門前町が焼失した際に、門前町と周辺町民に移転を命じて、1661年(寛文元年)に武蔵野原野に「吉祥寺村」が開村し、その移住と共に武蔵野に遷座して来ました。

それ以来「神田上水の水源地の守護神」として、また今日まで「地元の氏神様」として崇拝され、繁華街の中にある「パワースポット」としても崇められ続けて来ました。

「武蔵野八幡宮」のご祭神

「武蔵野八幡宮」の主祭神は、「誉田別尊」「比賣大神」「大帯比売命」の3柱です。

ご祭神の「誉田別尊」は、「武運長久」「出世開運」のご利益があるとされています。

「比賣大神」と「大帯比売命」は女性の神様なので、「恋愛成就」「安産」「夫婦和合」「子育て」などのご利益があるといわれています。

■誉田別尊(ほむたわけのみこと)

応神天皇
応神天皇

第15代天皇「応神天皇」の諱(いみな=崩御後のお名前)で、大分県の宇佐神宮を総本社とする八幡神社の御祭神。

その御代に朝鮮半島を通して漢字をはじめとする様々な物や知識が入ってきたことから「我国文教の祖」ともいわれています。

また、源氏や平家などの武家の守護神「八幡神」となって以来、武神として崇められたことから「文武の神様」として親しまれています。

■比賣大神(ひめおおかみ)

神道の女神。特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すものといわれています。

宇佐八幡では宗像大社(福岡県宗像市)に祀られている三柱の女神としていますが、卑弥呼という説もあります。

■大帯比賣命(おおたらしひめのみこと)

神功皇后
神功皇后

第14代天皇「仲哀天皇」の皇后にあたる「神功皇后」です。

妊娠中でありながら軍を率いて朝鮮半島に渡り、韓国の三国を治めたという「三韓征伐」の武勇伝が伝えられています。

また、仲哀天皇の崩御から応神天皇即位までの間、初めての「摂政」として君臨したとされています。

「武蔵野八幡宮」境内の建物や施設

■鳥居

鳥居

「武蔵野八幡宮」の境内に一歩踏み入れると、まず2001年(平成13年)に建立された大鳥居が参拝者を迎えてくれます。

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参詣のルール【1】鳥居をくぐる前に一礼

鳥居は神社の外と内を分ける意味があるとされ、ここから中は「神様の領域で」あることを示しています。目上の人の家を訪問するような気持ちで、一礼してからくぐるのがていねいな所作。

参拝を終えて退出するときも、向き直って一礼するとよいでしょう。

■井の頭弁財天の道標と庚申塔

道標と庚申塔

鳥居をくぐり抜けると、左手に「井の頭弁財天の道標」と「庚申塔」が置かれています。

「井の頭弁財天の道標」は、天明五年(1785)に建てられた大変古いもので、井の頭弁天様へお参りをする人のために建てられた道標です。

もとは武蔵野八幡宮の対角にあったものですが、移設をくり返され、2008年(平成20年)に、現在地に移されたそうです。

案内板には下記の説明が記載されていました。

神田御上水 井之頭辨戝天 道標

この道標(みちしるべ)は、井の頭弁天様へお参りする人のために建てられたもので、台座を含めると約二メートルあり、みちしるべとしては大きいものです。

正面には「神田御上水 井之頭辨戝天]と彫られており、左側面には「天明五年辰乙巳三月吉日」「これよりみち」とあります。(注、天明五年は西暦1785年)

もとはここ八幡宮の対角にあったのですが、大正時代に道路拡幅のため井之頭通りと吉祥寺通の交差する旧大踏切際に、さらに昭和四十四年武蔵野郷土館(現在江戸東京たてもの園)へと移設を繰り返し、平成二十年九月八日、当初の場所に程近いここ武蔵野八幡宮の地に戻すことができました。

吉祥寺を愛する会
宮総代 安藤 亨
写真家 鈴木育男
衆議院議員 土屋正忠

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庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。

塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれています。

■手水舎

手水舎

参道をさらに進んだ左側には「手水舎」がありました。
手や柄杓を近づけると自動的に水が出てくる、ハイテク仕様です。

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参詣のルール【2】手水舎では手、口を清める
「手水」は、参拝者が身を浄めるための水です。
手や柄杓などを使って、両手と口を清めましょう。

■狛犬

狛犬

1879年(明治12年)に奉納された狛犬は、口を開けた阿形(あぎょう)と口を閉じた吽形(うんぎょう)の一対の組み合わせとなっています。

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二人以上で一緒に物事を行う時に互いの微妙な気持ちが一致することを、阿形と吽形の組み合わせのように息を合わせる様子に例えて、「阿吽の呼吸」「阿吽の仲」などの言葉が生まれています。

■社殿

武蔵野八幡宮

緑に囲まれた参道を進むと、その奥に扁額に「武蔵野八幡宮」と掲げられた社殿が見えてきます。

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参詣のルール【3】お参りは「二礼二拍手一礼」
1:一度姿勢を正し、深いお辞儀を2回行う
2:胸の高さで、右手を少し引いて(ずらして)手を合わせ、肩幅程度に両手を開き、2回打つ
3:手をきちんと合わせ、心を込めて祈る
4:深いお辞儀をする

■境内社

境内社

拝殿の右手前には、「疱瘡」「須賀」「稲荷」「厳島」「大鳥」「出雲」「三島」の七社が祭られている「境内社」があります。

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疱瘡神社:天然痘の神様
須賀神社:須佐之男命(すさのおのみこと)を祭神とする神社
稲荷神社:お稲荷さん
厳島神社:広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社
大鳥神社:日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭神とした大阪府の「大鳥大社」が総本山
出雲神社:島根県出雲市の「出雲大社」
三島神社:総本社は伊予の「大山祇神社(大三島神社)」と伊豆の「三嶋大社」

「出雲神社」には「大黒天」様がいらっしゃって、「吉祥寺七福神の大国様」としても知られています。

■神輿蔵

神輿蔵

「武蔵野八幡宮」の宮神輿が収められています。

「吉祥寺秋まつり」とも呼ばれる「例大祭」の際には、この宮神輿と10基の町会神輿の計11基の神輿が繰り出して、吉祥寺の街全体の祭りとして賑わいます。

■吉祥寺ウド

吉祥寺ウド

境内の一角には、その由来について記したプレート(下記)と共に、吉祥寺の特産品であった「吉祥寺ウド」が植えられていました。

江戸・東京の農業 吉祥寺ウド

武蔵野八幡宮周辺は旧武州多摩郡吉祥寺村として、江戸時代より畑作農業が盛んな所でした。

五日市街道に面していたので、江戸との交流も多く、野菜や薪の供給地でもありました。

ウドは教少ないわが国原産の野菜のひとつで、古代から自生のものが「利用されていました。

記録によれば、この地で栽培されるようになったのは、江戸時代後期の天保年間(1830~44)とされています。

元来、強健で適応性の広いウドは、武蔵野にもよく適し、特に冬から春にかけては野菜が不足していたことから、この時期に生産されたウドは独特の歯ざわりと香りで、江戸庶民に歓迎されました。

明治、大正、昭和と栽培は益々盛んになり、吉祥寺ウドとして広く知られました。しかし、その陰には篤農家による創意と努力により、他に例を見ない純白に育てる、「穴蔵軟化法」等、技術開発のたゆまぬ研究がありました。

都市化により栽培面積は減少してきましたが、特産吉祥寺ウドは、その後「東京うど」として全国に知られるようになりました。

平成9年度JA東京グループ
農業協同組合法施行五十周年記念事業
東京むさし農業協同組合

まとめ

武蔵野八幡宮

「吉祥寺」駅の北口を出て「サンロードを」北へ向かい、五日市街道まで出ると通りの向こう側に鎮座している「武蔵野八幡宮」が見えてきます。

こんな吉祥寺の繁華街とも云える街中に、緑溢れる境内を維持できているのは、素晴らしいことだと思います。

江戸時代の大火で住みかを追われた「吉祥寺」門前町の住民たちが移住し、開拓したことで成立した「吉祥寺村」の鎮守様として崇拝され、繁華街の中にある「パワースポット」としても崇められ続けてきました。

その後の関東大震災や太平洋戦争と空襲などの紆余曲折を経て、「住みたい街ランキング」上位の常連となっている人気の街「吉祥寺」の「地元の氏神様」として、これからも愛され続けていくに違いありません。

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