吉祥寺むかしスケッチVol.1

むかしスケッチ

普段見慣れた街並みや風景にも当然ながら歴史があります。

「え!ここってそういう場所だったの?」なんて思うこともざら。今につながる昔の風景。

その一瞬をスケッチでお伝えします。

目次

その1 その昔、吉祥寺のはじまりの話

住めば都といいますが、先の大火の惨状を思い出せば、ここは天国みたいに良いところです。

大火では、家どころか町も人も焼かれて、空がごうごう赤く轟いていました。

あんなに賑わっていた吉祥寺の門前も変わり果ててしまいました。

何もかも失って途方に暮れているところへ、しまいには土地ごとお役所に「お召し上げ」。

夢に見ても、郷へ帰ることは二度と叶いません。

旦那様から武蔵野へ移る、とお聞きしたとき、空恐ろしく思ったものです。

なんでもお殿様の屋根の茅刈場だったとか。そんな荒れ野で暮らしていけるのか。江戸には何でもありましたから。

私たちの新しい村は「吉祥寺村」と名付けられました。

寺は別のところへ行ってしまいましたが、やはり門前への愛着でしょうか、無くした故郷を忘れぬためでしょうか。

はるばるやってきたこの地では、日ごとに景色が変わります。

そこら中に槌音が響いて、人の往来もせわしく、皆それはそれは懸命に、生き生きと勤めています。

それにしても宅地の広いこと、屋敷に畑に林に、寝床があって食べるものも採れれば、恐ろしい記憶さえはるか遠くへ行くようです。

まわりも見知った顔ばかり、散々な思いを味わった同志、今の暮らしに精を出すのも詮方ないというものです。

―ある移住者の奥方のお話(架空の人物)

大火がきっかけの集団移住

江戸時代初期のころ、武蔵野台地上にある現吉祥寺は水が乏しく村もない、茅(かや)が生い茂る荒涼とした未開拓の地でした。

この風景が一変することになった契機は、俗に「ふりそで火事」とも呼ばれる明暦の大火(1659年)です。

2日に渡って江戸市中を焼き、10万人の死者を出したともいわれる江戸最大の火災でした。

当時、江戸本郷元町(現在の水道橋)にあった「吉祥寺」も門前町もろとも被害にあいます。

吉祥寺はその後駒込の本郷本富士町に移転、門前の住人は江戸を離れた武蔵野に移住することになりました。

細長~い「吉祥寺村」の地割

むかしスケッチ 地割

住人に与えられたのは五日市街道沿いのエリア。

幕府の新田開発により、5年間に渡る給付金と造営費用の貸与があり、またたく間に村がつくられていきました。

それぞれの宅地は街道から南北に短冊状に伸びた細長い地割で、一軒につき間口35~55メートル、奥行きはなんと約1キロメートル!

江戸時代の新田開発の典型的な形であったといいます。

街道側から屋敷―畑―雑木林の順に配置し、広い宅地でも街路を共有し、インフラを活用しやすい形状でした。

現代に生き続ける江戸の礎

この地割は今でこそ細かく分割され、再編が進みましたが、今なおその基盤を見ることができます。

公園通りに吉祥寺大通り、サンロードやハモニカ横丁、駅に対して街の区画が「なんだかナナメだな~」と思ったことありませんか?

これこそが開拓の旧跡。今の姿からは想像もつかない「吉祥寺村」に思いをはせ、改めて街を歩いてみませんか?

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次
閉じる