vol.1
五十嵐えりといいます。この度、『吉祥寺時間』にコラムを書かせて頂くことになりました。
これまで吉祥寺は友人とご飯を食べたり、井の頭恩賜公園を散歩したり、そんな場所でした。
それが、昨年夏以降、大きく変わりました。自分の顔と名前の入った幟を道路に置き、マイクを使ってスピーチしたり、チラシを配ったり、道行く人と会話をしたり、新しい人と知り合ったりして過ごす『吉祥寺時間』に変わりました。
私は、昨年の6月、初めて東京都議会議員選挙に立候補し、初当選しました。
議員になっていいことの一つは、いろんな方と知り合いになれること。
4月某日、ハモニカ横丁である方から『吉祥寺時間』の編集者さんをご紹介頂き、「コラム書こう」となりました。
テーマを尋ねると、「自由」ということで、有難く、自分が考えている事など好きなことを書いていきたいと思います。
簡単に自己紹介します。
私は、議員になる前は、弁護士や国会議員政策担当秘書を、更にその前は、中卒でフリーターを10年間くらいしました。
ファミレス、レジ打ち、4トントラック運転手もやりました。
ちなみにトラック運転手は腰を痛めてすぐに辞めました。どの仕事も長続きせず、自分が本当にやりたいことはなんだろうとずっと模索してきました。
若い頃から「普通」が嫌でたまりませんでした。
本当の自分が特技も才能もない超平凡人間だとわかっていたからです。
自信も個性もない自分が、自分として自由になれる場所を追求し続けてきました。
理想の自分像を描く、やりたいことをやる、恐れても、新しいことに挑戦する。
コラムも人生初の試みです。
これからお手柔らかにお願いします。
vol.2|参議院選挙が始まった。
吉祥寺での活動中、高齢の女性に「憲法改正しない政党はどこ?」と聞かれた。
選挙が終わったら、憲法改正の国民投票があるかもしれない。
私は20歳のころ、憲法14条(すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない)を知り、衝撃を受けた。
当時は、お金もなく正社員にもなれず将来を悲観していたが、資格の勉強をしようと開いたテキストで知り、興奮した。
社会の底辺にいた自分も、「法の下」では、普通に就職し結婚している人と「平等」だと、憲法は保障していた。
私は、憲法を「武器」にすると決め、弁護士を志した。憲法14条に関し、6月20日、同性カップルが、同性婚ができない現行の民法や戸籍法が憲法14条に違反すると主張して争った裁判で、大阪地裁が「違反しない」との判決を出した。
同性愛者が共同生活を営むための制度は婚姻制度に限られず、どんな制度がよいかの国民的議論が不十分だという理由であった。
しかし、昨年3月17日、同様の訴訟で、札幌地裁は、性的指向は自らの意思で選択できない個人の性質で、大多数である異性愛者の理解を得られなければ同性愛者が結婚できないのは、不合理として、「違反する」と判断していた。
地裁レベルで司法判断が分かれた。東京都では6月15日、「東京都パートナーシップ宣誓制度」が成立。
しかし、都は「婚姻制度とは別のもの」と繰り返しており、これは法律婚ほどの効果はないことを意味する。
こうした同性愛者と異性愛者の差異は正当か。
誰でも人生の中で、理不尽なことが起こりうる。
そうしたとき、憲法がその理不尽に立ち向かう「武器」となることがある。
冒頭の高齢の女性は憲法9条のことを考えたのだろうが、色々な方の思いを聞いて、活動していきたい
profile
中学の時にいじめにあい不登校に。
フリーターを経て高卒認定資格を取得し、仕事をしながら名古屋大学法科大学院へ入学。
その後司法試験に合格、弁護士に。2021年東京都議会議員選挙(武蔵野市選挙区)にて初当選。
Vol.3|選挙の感想
参議院選挙が終わった。選挙終盤、安倍元総理が街頭演説中に暗殺されるという、信じがたい事件が起きた。
候補者や議員にとって、街頭演説は直接対面で有権者に思いを伝えられる極めて重要な場である。
私も選挙の時、どこで何を言うか日中ずっと考えていた。
そのような場で行われた暴挙に強い怒りを感じる。
ご冥福をお祈りしたい。
とはいえ、選挙で社会を変えるチャンスを生かせなかったことは悔しい。
今の生きづらい社会は変えなければいけない。
勤労世帯の収入は1997年をピークに下降し続け、正規社員に対する非正規雇用の割合も増加、今や全世帯の3割が世帯年収300万円未満だ。
格差が広がり、下位層が厚くなっている。
私も、パートで働いていたときは、安い収入額イコール自分の価値と考えて、自信を喪失していた。
これから一生安い賃金で同じ作業をすることを想像すると、怖かった。
まわりでも一度も正社員になったことがないという人も珍しくない。
先日、新宿で路上生活者のための物品支給の列に並んでいた同年代の女性に話しかけた。
彼女は「派遣の仕事しか就いたことがない。今はクビになって仕事がない」と言っていた(なお、写真はそのとき支給された一回分の食料で、とても足りない)。
彼女のような人は大勢いる。
これが今の社会である。
そして、彼らは将来の自分かもしれないし、家族や友人かもしれない。
不安定な職業にしか就けないのは、「自己責任」ではない。
環境を整備しないのは政治の怠慢であり、政治の責任だ。
暴力支配が許されない民主主義社会の日本では、その怒りをぶつける手段が「選挙」だった。
しかし、結果はなんだか自分としては不甲斐ないものであった。
選挙が終わったから朝のチラシ配りを再開して、そして、また吉祥寺の街頭に立って言い続けていくしかない。
vol.5|子どもたちに包括的性教育を
私たちは学校で「包括的性教育」というものを学んでこなかった。
生殖器官などの知識の教育だけでなく、避妊やジェンダーや人権なども含めた「包括的性教育」は、ユネスコでは5歳から学ぼうと示している。
日本の性教育は世界的にみて、かなり遅れている。
先日、都内のある中学校が行った性教育の授業を見学した。
妊娠や避妊について、また友達から裸の写真を送れと言われたらどうすべきかなど、体の仕組みから日常のトラブルまで丁寧に教えていた。
子どものころに知りたかったことばかりだ。年に1回の50分の授業では足りない。
どこまで生徒の身になるかという疑問もあるが、無いよりはあったほうがよい。
性に関する知識は生きる上で不可欠だし、自分のことを知れば、相手の体も気持ちも大切にできる。
なにより、ネットには間違った情報が多く流れているので、一刻も早く正しい情報を伝えるべきだ。
ちなみに北欧では、包括的性教育を行うことで、若年の性感染症や中絶率が下がったとの明確なデータがある(フィンランド等)。
なぜ日本では、行われていないか。
東京都では平成15年頃に先進的な性教育授業をしていた学校を都議会議員が批判した「七生養護学校事件」が起き、教育現場が委縮することになったと言われる。
法的には、文部科学省の学習指導要領に「妊娠の経過は取り扱わない」(いわゆる「歯止め規定」)とあり、現場がこれに反することはできないという実態もある。
文部科学省の政策は国会で議論される。
国会でも平成15年頃に、一部の国会議員らが、性教育やジェンダー平等の考え方を猛烈に攻撃した。
彼らは、性教育を行えば、子どもたちの性が自由化され、家族の伝統が壊れると主張するが、他国のデータに明らかに反し、根拠に乏しい。
しかし、こうした国会での質疑等による影響は少なくない。
文科省も委縮しているのは明らかだ。
一刻も早く、学習指導要領の「歯止め規定」を撤回すべく、国会で議論を進めてほしい。
そのためには、後ろ向きな国会議員たちを交代させるのが近道ではないか。
vol.6|宗教について考える
連日、旧統一教会と政治家との癒着がテレビをにぎわせている。
先日、武蔵野公会堂にて、「旧統一教会と政治家」をテーマに、講師を招いて講演会を行った。
私は司会を務めた。
多くの市民が参加し、この問題の関心の高さをうかがわせた。
ところで、信じること自体は人が生きる上で必要なものである。だから憲法二十条に信教の自由が規定されている。
誰もが、多かれ少なかれ、主義や主張、哲学をもっている。
それは程度の差はあれ、宗教みたいなものである。
宗教は、常に選択を求められる生活の中で、自らの行動原理になってくれる。
「自分は無宗教だ」と威張る人のほうが、私は人として信用できない。
実は、私の母も、私が中学校に行かなくなった二十年以上前に、私が不登校になったことに絶望し、ある宗教に入信した。
現在特に問題なく生きていられるのは、その宗教がたまたま悪質な団体ではなかったというだけだ。
当時、母は誰にも理解されなかった苦悩の拠り所を宗教に求め、母は宗教により心の救済を得た。
旧統一教会の信者にも、信仰が生きる支えとなっていた部分はあるだろう。
そのことを否定することはできない。
旧統一教会の政治家との癒着の問題解消や高額寄附等の被害にあった人たちの救済と同時に、今後こういった信者たちの心の支えをどうやって作っていくかが、重要な課題となってくる。
冒頭の武蔵野公会堂のイベントの最後の質疑応答の際、元信者を名乗る方から、「世間は統一教会を全く理解していない」という趣旨の意見が出た。
会場は静まり返ったが、この人は責められるべきではない。
私はあえて、宗教に救いを求めるのは正しいと言いたい。
悪いのは、弱っている人間の心理につけ込み信者から高額の金銭を巻き上げようとする一部の人たちである。
私が懸念しているのは、この事件を契機に、「無宗教者」でいることがもてはやされ、主義も主張も哲学もない行動原理を欠く人たちが、この社会に蔓延する事である。
vol.7|募金活動
吉祥寺駅の周辺では、いろんな人が色んな募金活動をしている。
動物愛護だったり、宗教だったり、難民救済を求める募金だったり。
最近、ある募金活動をしている方から、吉祥寺駅での募金活動中、通りすがりの人に暴言を吐かれたと相談を受けた。
動画を見せてもらったが、邪魔だなんだと暴言を吐くものであった。
募金活動は、人々の交通に著しい影響を及ぼすような態様でなければ、原則、道路使用許可は要らない(道路交通法第七十七条)。
私道でなければ自由に行っていい。
募金活動は一つの表現活動であり、憲法上も尊重されるべき行為だと思う。
暴言を吐くのは、募金活動する人が気に入らないからか、それともそうした活動が理解できないからか。
募金を求める人たちは救いを求める弱い人のように見えるのだろうか。
インターネット上でも、誹謗中傷が飛び交う。
ある人を誹謗中傷するツイッターの投稿に「いいね」ボタンを繰り返し押した国会議員の不法行為責任が認められた判決もあった。
最近、ニュージーランド在住の方から、ニュージーランドには「ネトウヨ」がいないという話を聞いた。
なぜならば、ニュージーランドでは子どもの頃から、「社会は多様な意見で成り立っていること」を学ぶからだという。
象徴的なのは、学校の子ども達の椅子の配置だ。子どもたちは全員が黒板を向くのではなく、それぞれ数名ごとの円になって座る。
社会には、学校の先生という正解があるのではなく、自分の意見を表明し、他の子どもの意見を聴きながら、社会には多様な意見があると知るのである。
自分と違う考えの人がいてこそ、互いに交わって刺激となり、新たな発明や発見が生まれるのだと思う。
全員が同じ意見なら社会は発展しない。
そして、誰かを救うために募金活動をする人は、強い人だ。
強い意志がなければ、誰かを助けようと思えないからである。
改めて、募金活動をしている方々に敬意を表し、違いを許容する寛容な社会を目指したい。
vol.8 映画について語りたい
今年ももう終わる。東京都議会議員になって早一年半、時が経つのが早い。
十二月十八日、吉祥寺本町にある創作中華酒房「幸宴」を貸し切って、本年最後の都政報告会を開いた。
都政報告会では、いつも参加者から叱咤激励を頂く。
その中で、初めて参加したという方から、「これまで政治に全く興味はなかったけど、五十嵐さんが不登校や非正規などいろんな苦労をしてきたことを知って、そういう人が立候補するなら応援したいと思った。」と言ってもらった。
私は、中卒で社会に出て、非正規で約十年働いていた。
生活にも心にも余裕がなかった。
どうしようもなくなって、ある日、生きづらいのは自分のせいではなく、政治のせいだと思うようにした。
その怒りが、私の司法試験の猛勉強の原動力になった。
なにより、自分の不遇を政治のせいにすることで、自分の過ちを不必要に責めなくて済んだ。
少し心が楽になった。
私は、たいていの個人の悩みは、社会的な問題として、政治が解決できると思っている。
もし、医療や教育や老後の心配がなければ、多くの人が今を楽しく生きられるはずだ。
そして、政治のせいにすれば、必要以上に自分を責めることをやめられる。
だから、自分だけではなく、社会や政治の在り方にも目を向けてほしい。
なので、私がきっかけで政治に関心をもってくれたというのはとても嬉しい。
都政報告会の会場として場所を貸してくれた「幸宴」は、選挙前から気に入り、よく通っている。
ヘルシーで美味しいしお得に加えて、店主と映画の好みが合う。
最初にお店に行ったとき、グレイテストショーマンについて、差別や偏見を扱ったテーマがいいと盛り上がった。
忙しくて自分の趣味が映画鑑賞ということを忘れていたが、年末、少し時間に余裕ができたので、アバターウェイ・オブ・ウォーターを映画館に観に行った。
映像は素晴らしかったが、最初のアバターと比して、社会的なテーマが物足りない気がした。
店主は観たかな、映画観た人と感想言いあいたい!
vol.9 年明けてリセットされない
年が明けた。ほぼ毎晩、地域の新年会がある。
一月が終わろうとしている今夜も、ある商店街の新年会に出席してきた。
祝辞では、毎回、「明けましておめでとうございます」と申し上げている。
しかし、正直なところ、年が明けても「おめでとう」と言えるような社会ではないなと思っている。
年末年始も、中央線は人身事故でよく止まっていた。
電気代も食料品も値上がりしている。
都庁前の炊き出しには大勢が並んでいる。
SNSでは若者が路上生活者を馬鹿にして遊ぶ投稿がバズっている。
一方で、東京都の都税収入は増えている。
格差が拡大しているように感じる。
非正規などの低所得の人たちは本人の努力が足りない、という人がいる。
しかし、これは間違っている。
都知事は、年始の記者会見で、都内の十八歳以下の子どもに、所得制限なしで、一人当たり毎月五千円を支給する方針を明らかにした。
所得制限がない理由として、「共働きや、一生懸命働いて税金も納めているような方々が給付の対象にならないというのはあたかも罰を受けているかのよう」と説明した。
しかし、多く税金を納められるのは、納めていない人より一生懸命働いたからではない。
たまたま能力があり、たまたま収入の多い仕事に就けられただけである。
納税額が少ない人も一生懸命働いている。
問題は必死に働いても貧困から抜け出せない社会構造である。
年が明けただけでは、苦しい生活はリセットされない。
それをリセットできるのは、税金を再分配し、教育や医療等の社会制度を変えることができる政治である。
今年こそ、いい加減、貧困を個人の責任にするのをやめるべきだ。