吉祥寺の歴史を知る!太平洋戦争と戦後の復興とは?

本サイトの[吉祥寺の歴史「関東大震災と吉祥寺」]では、関東大震災で住む家を失った多くの人々の移住によって人口が急激に増加して、吉祥寺を含む武蔵野の地が近郊農村から、近郊都市へと変貌していった経過をご説明しました。

また、日本の戦時体制に伴って軍需工場の建設が始まったことにも触れましたが、今回はその後からの大きな歴史の転換期となる「太平洋戦争と戦後の復興」について調べてみましょう。

目次

戦時体制と軍需工場の建設

大正時代大正時代の中島飛行機製作所本社
大正時代大正時代の中島飛行機製作所本社

日本と中国(当時は「中華民国」)との戦い「満州事変」が始まった1931年(昭和6年)頃からの日本は、巨額の軍事費を計上するようになり「軍需ブーム」が起きてきました。

そのため武蔵野市にも、電流計(地上・航空機用)、温度計、航空機用発電機などを作る「横河電機製作所」や、戦闘機「隼」などの航空機のエンジンを製造する「中島飛行機株式会社 武蔵野製作所(後に「武蔵製作所」となる)」やその下請け工場などの軍需工場の建設が相次ぎ、「軍需工業地帯」へと変貌していきました。

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横河電機は、1920年(大正9年)に創業した工業計器・プロセス制御専業メーカー。

計測・制御機器メーカーとしては国内最大手で、世界第6位。

太平洋戦争中、軍需により急成長し、終戦時は1万人の従業員を擁していました。

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中島飛行機株式会社は、1917年(大正6年)から1945年(昭和20年)まで存在した日本の航空機・航空エンジンメーカー。

エンジンや機体の開発を独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、第二次世界大戦終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メーカーでした。

戦後には財閥解体を経て、「スバル360」を産み出した自動車メーカー「富士重工業」となりました。

太平洋戦争の空襲と疎開による人口の減少

空襲前と空襲後の中島飛行機

満州事変後、日本は断続的に戦争を繰り返し、日中戦争を経て1941年(昭和16年)12月にはアメリカとイギリスに宣戦布告し、太平洋戦争へと突入していきます。

開戦直後、日本軍は猛烈な勢いで東南アジアおよび太平洋の島々を攻め、欧米の植民地であったそれらの地域を攻め落とし、開戦から半年弱で東南アジア全域と北半球の太平洋のほぼ西半分を勢力下に収めました。

しかし、1942年(昭和17年)にハワイ西方の「ミッドウェー島」での海戦に大敗北して以来、占領地を次々と奪回されて各地で全滅を意味する「玉砕」が繰り返されました。

1944年(昭和19年)6月からは、米英を中心とした連合国軍の爆撃機が日本各都市に対して無差別爆撃(空襲)を行うようになりました。

吉祥寺周辺も、軍需工場が集中し特に最新鋭の航空エンジン製造工場であった「武蔵製作所」があったことから、1944年(昭和19年)11月から翌年の年8月までに10回以上にわたって空襲を受けました。

そのため、武蔵野町から疎開する住民も多く、昭和19年には6万人弱だった人口が、終戦時には4万人強にまで減少してしまいました。

戦後の吉祥寺の復興と闇市

戦後の闇市
戦後の闇市

戦後の復興期の「吉祥寺」駅前には、米軍の横流し品を売る店や、本来売買を禁止されている米などの統制品を売る店など、「ここに来ればなんでも揃う」といわれた「闇市」が立ち並び、活気にあふれていました。

その中で最も多かったのが、店構え数坪の小さい飲み屋であり、店舗数は150軒強もあったそうです。

戦後復興するに従って吉祥寺の街も混雑を極め、街の整備が早くから課題となってた武蔵野町は、1947年(昭和22年)には市制を施行して「武蔵野市」が誕生しました。

「武蔵野市」は都営住宅や公団住宅を積極的に誘致し、都営緑町アパート(1955年・昭和30年、緑町団地(1957年・昭和32年)、桜堤団地(1959年・昭和34年)など多くの住宅団地が誕生するとともに、「吉祥寺」駅の利用客はさらに増加し、駅周辺には商店が集まるようになり、ベッドタウンとしての都市機能が充実していきました。

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戦中戦後の食糧管理制度の下で「配給」以外の食料を入手することは違法でしたが、配給だけで生きぬくことは困難だったため、野菜や魚、生活用品が並び、進駐軍の食堂から出た残飯を集めた「残飯シチュー」や密造酒などを提供する無許可営業の飲食店などが乱立した市場が発生し、生きぬくために必要なものを求める人で溢れていました。

この市場は「闇市」と蔑称で呼ばれていましたが、その後国民生活に必要であるとの認識から「ヤミ市」と表現されるようになりました。

「ハモニカ横丁」の誕生

ハモニカ横丁
ハモニカ横丁

荒廃した「吉祥寺」駅前にできた「闇市」は、街全体が近代化される中で駅前広場のために闇市起源の商店街が整理されるなどして「トリミング」されることにより、入り組んだ細い路地の中に小ぢんまりとした商店が混沌と立ち並ぶ様が「古き良き昭和の面影を残している」と愛されている「ハモニカ横丁」として残りました。

「ハモニカ横丁」の名前は、武蔵野市に在住していた作家の亀井勝一郎が、100件ほどの小さな店舗が立ち並ぶ様を「楽器のハーモニカの吹き口」に例えたことから由来しているといわれています。

2000年代に入り「ハモニカキッチン」をはじめとするモダンな飲食店が相次いでオープンし、レトロな佇まいを残す横丁に、モダンなデザインのカフェやバーが登場し、新旧が一体となった新感覚の空間へと進化して「吉祥寺を象徴するスポット」のひとつとなっています。

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「ハモニカ横丁」は、「仲見世通り商店街」「中央通り商店街」「朝日通り商店街」「祥和会」の四つに商店街から成り立っています。

これらの商店街組織は、2008年までは「吉祥寺北口駅前商店連合会」として、対外的には一つの組織として活動していました。

2000年以降になって戦後のスタートからの人々は高齢となり、商売を次の世代がが引き継ぐことになり、場所を再転貸するケースも次第に増加してきました。

そこで、商店の二代目・三代目の若手のグループが中心となって、この横丁に新しい風を起こそうとするメンバー「チームハモニカ」を立ち上げ、その活動で従来の「ハモニカ横丁」になかった新しいタイプの店が続々開店しています。

また、1899年(明治39年)に甲武鉄道(現在の「JR中央線」)の15番目の駅として「吉祥寺」駅が開設する際に、駅舎の土地を提供した月窓寺(サンロードに大きな門を構えているお寺)」が、今でも「ハモニカ横丁」の土地の所有者だそうです。

まとめ

戦時体制下で「軍需工業地帯」へと変貌していった吉祥寺の街も、空襲によって大きな被害を受け、地方への疎開によって住む人の数も減ってしまいました。

しかし、戦後の混乱の中で民衆のエネルギッシュな活動拠点として「闇市」が立ち並び、吉祥寺の駅前には活気があふれていました。

そしてその活気ある街の風情は、「ハモニカ横丁」に代表される吉祥寺の魅力となって、今も多くの人々が訪れて来る街となっています。

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