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吉祥寺の歴史!未曽有の災害「明暦の大火」|吉祥寺時間

吉祥寺解説員
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「地元のお店を再発見」をテーマにしたフリーマガジン『吉祥寺時間』です。

 

この記事では、「吉祥寺が『吉祥寺』と呼ばれるようになったのは、ある大災害がきっかけとなっている」という故事について、江戸時代までさかのぼって調べてみます。

常に『住みたい街ランキング』の上位を占めている「吉祥寺」ですが、駅名にある「吉祥寺」という寺が『ここにはない』という不思議な現象に気づいた方は少なくないと思います。

その理由については、本サイトの[吉祥寺駅に「吉祥寺」という寺がない理由を解説]で解説してありますが、1657年(明暦3年)の「明暦の大火」が吉祥寺の誕生のきっかけとなった経過を調べてみると、「大火事で焼け出された住民たちが、見知らぬ土地に移住させられた」ドラマチックなできごとが起きていました。

さらに、当時から世界的な大都市であった「江戸」の弱点や、江戸を焼きつくした大火事がその後の「江戸の都市計画」に与えた影響なども分かったので報告させていただきます。

大都市「江戸」の弱点は「火事」だった

江戸のパノラマ

『愛宕山から見た江戸のパノラマ』 撮影者:フェリーチェ・ベアト 1865-1866頃

1603年(慶長8年)に初代将軍・徳川家康によって江戸幕府が誕生して以来、江戸の町は拡大・成長を続け人口も年々増えていきました。

正確な記録は残っていませんが、18世紀には江戸の人口は100万人を突破したと考えられており、世界でも有数の大都市となっていました。

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世界に目を向けると、1801年のロンドンは人口およそ86万人、パリはおよそ54万人と推定されており、100万都市「江戸」は北京などとならんで世界の都市のなかでトップクラスの人口を持つ大都市でした。

しかし、ひとたび火事が起きると、ただちに「大火事」になってしまうことが、大都市「江戸」の大きな弱点でした。

本記事で解説する「明暦の大火(1657年)」以外にも、「明和の大火(1772年)」「文化の大火(1806年)」という江戸中を焼き払ってしまった大火事や、中小規模の火事がたびたび起こり、「火事と喧嘩は江戸の花」とまで言われるようになっていました。

江戸が火事に弱かったのには、様々な理由がありました。

1.木造建築
高温多湿な日本の風土に合わせて作られた木造建築は、いわば「木と紙」でできていたため、ひとたび火災が起きると簡単に燃え上がってしまう。

2.世界一の超過密都市
江戸の総人口の半数は町人でしたが、町人が住める土地の総面積は武士に比べて狭く、結果として路地裏まで長屋がすし詰めの超過密状態だった。

3.江戸特有の気候
「夏は雨が多く、冬は晴れが続き非常に乾燥する」という江戸の気候の特徴によって、特に冬場は外気が乾燥していた上に、冬から春先にかけて強い季節風が吹きつけてきた。

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「明和の大火」は、1772年(明和9年)に江戸で発生した大火。
江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、山王神社、神田明神、湯島天神、浅草本願寺、湯島聖堂も被災した。
死者は1万4700人、行方不明者は4千人を超えた。
出火原因は寺の坊主による放火で、犯人は火付盗賊改によって捕縛され、市中引き回しの上、小塚原で火刑に処された。

 

「文化の大火」は、1806年(文化3年)に江戸で起きた大火。
延焼面積は下町を中心に530町に及び、焼失家屋は12万6千戸、死者は1200人を超えたと言われている。
この大火で薩摩藩上屋敷や増上寺五重塔が全焼し、丙寅の年に出火したために「丙寅の大火」とも呼ばれている。

未曽有の災害「明暦の大火」

明暦の大火を描いた田代幸春画『江戸火事図巻』(文化11年/1814年)

1657年(明暦3年)という年は、江戸では元旦から連続して火災が発生し、多くの火事に見舞われていました。

この冬の江戸の気象状況は、80日以上も雨が降っておらず、大変乾燥した日が続いていました。

そして、現在の暦で3月2日から4日(当時の陰暦では、1月18日から20日)にかけて、のちに「明暦の大火」として伝えられる未曽有の大火が発生しました。

「焼失町数:500余」を数え、当時の江戸の市街地の約6割が焼失し、死者は10万人を越えたと伝えられています。

出火原因については「放火」「失火」と多説ある中で、「振袖火事」と伝承される逸話もありますが、出火原因の真偽のほどは確かではありません。

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伝承「振袖火事」

裕福な質屋の娘が、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れし、「恋の病」から寝付いて亡くなってしまいました。
両親がせめてもの供養にと娘の棺にかけてやった形見の「振袖」が寺男によって転売されたのですが、この振袖を買って着た町娘も次々と亡くなってしまいました。

因縁を感じた住職が問題の振袖を寺で焼いて供養することになり、住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに吹いてきた強風にあおられて裾に火のついた振袖が空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて大屋根を焼きつくしてしまいました。

やがてこの炎が、一陣は湯島六丁目方面、一団は駿河台へと燃え広がって、ついには「江戸の町を焼き尽くす大火となった」という伝承が元になり、「明暦の大火」は俗に「振袖火事」とも呼ばれるようになりました。

「諏訪山 吉祥寺」門前町住民の集団移住

諏訪山吉祥寺

諏訪山吉祥寺(文京区)

この「明暦の大火」によって江戸中が焼きつくされた中で、江戸本郷元町(今の「水道橋」駅付近)にあった「諏訪山 吉祥寺」という寺も門前町ごと焼失しました。

その後「吉祥寺」は本駒込(現在の文京区「本駒込」)へ移転することになったのですが、問題は周囲の住民です。本駒込にはこうした人々が移転する土地がありませんでした。

そのため、「吉祥寺」の門前町の住民は一緒に駒込へは移ることができず、全く未知の土地である武蔵野台地に集団移住させられて、しかも肥沃とはいえない「関東ローム層」の粘り気のある土壌を開墾することになったのです。

つまり「吉祥寺」というのは、「諏訪山 吉祥寺」の門前町の住民が、固い決意と共に命名した「移住してくる前に住んでいた、愛着のある門前町の『寺』の名前を残した地名」だったのです。

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「関東ローム層」は、富士山や箱根の噴火で放出された火山灰が偏西風に乗って流れてきて関東平野に堆積し、一万年以上もの長い時間をかけて含まれている鉄分が酸化して赤黒くなった土の層です。
火山灰が降り積もった土地なので、土地自体に植物の生育に必要な栄養分が少なく、農業、特に稲作には向かない土地でした。

「防災に強い」町づくり

両国橋

葛飾北斎「隅田川のほとりから両国橋を渡るオンマヤガシの夕日」

「明暦の大火」で焦土と化した江戸の復興にあたって、幕府は「防災に強い」町づくりを目指した施策を施しました。

市街地では避難と延焼防止のために道幅の拡張が行なわれ、延焼防止のために町中に広場(火除地)を設けました。現在も地名に残っている「上野広小路」は、その「火除地」の一つです。

また、大火の際に東側に逃げようとした江戸の住民たちが、隅田川に阻まれてその先に逃げることができず、災害が大きくなってしまったことの反省から、隅田川の第二の橋として「両国橋」が架けられました。

その他にも、江戸城内にあった徳川御三家の屋敷を城外に移し、江戸城周辺にあった大名・旗本屋敷をその外側に移転させ、寺社を江戸の郊外に移転させるなどの「防災」対策を施しました。

これらの施策によって江戸の市街地は拡大し、その後の江戸の発展の基礎ができあがりました。

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「両国橋」は、長さ94間(約200m)、幅4間(8m)で、架橋当初は「大橋」と名付けられていました。
しかし、西側が「武蔵国(現在の東京都、埼玉県、川崎市、横浜市の大部分)」、東側が「下総国(現在の千葉県北部と茨城県西部)」と、2つの国にまたがっていたことから俗に「両国橋」と呼ばれ、1693年(元禄6年)に新大橋が架橋された時に「両国橋」が正式名称となりました。

まとめ

江戸時代にはすでに世界有数の都市となっていた「江戸」の、最大の弱点は「火事」でした。

1603年、1772年、1806年の3回の大火事にも負けず、その都度立ち上がってきた「江戸」の住民や幕府の復興へのエネルギーには、現在の我々も敬服するしかありません。

また、愛着のあった門前町から未知の土地へと集団移住させられて、不毛な土壌を開墾することになった「諏訪山 吉祥寺」の門前町の住民たちが、愛着のある「吉祥寺」を村名とした決意のほどが偲ばれて、頭が下がる想いがします。

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