中央線で一番新しい駅はどこ?中央線の歴史を解説

吉祥寺と関わり深い中央線の各駅が誕生した順番を、世相を交えて解説します!また、当時の吉祥寺の様子も併せて解説いたします。

「吉祥寺」駅を通るJR「中央線」は、1889年(明治22年)に開通して依頼130年以上の歴史を誇る東京の幹線鉄道です。

正確には、「東京」駅から「塩尻]駅を経由して「名古屋」駅までを結ぶ「中央本線」、「千葉」駅から「御茶ノ水」駅を経由して「三鷹駅」までを各駅停車で結ぶ「中央・総武緩行線」もありますが、一般的には「東京」駅から「高尾」駅までの快速電車「中央線快速」が「中央線」と呼ばれています。

1週間に933万人(延べ)が利用している、この中央線(中央線快速)の130年以上の歴史を調べて、各駅が誕生した順番などを、当時の世相なども交えて調べてみましょう。

目次

明治時代|甲武鉄道が開業し、徐々に伸びて24駅が誕生

甲武鉄道(新宿~立川間)が開業

甲武鉄道

明治時代初期の東京では、荷物の輸送や人々移動手段は馬車に頼っていましたが、多摩や山梨などからの丸太や石灰石などの特産物を「より大量に・より速く・より遠くまで運ぶ」というニーズから、東京と多摩地方等を結ぶ新たな輸送機関である鉄道が求められ、1889年(明治22年)に甲武鉄道(新宿~立川間)が開業しました。

また同年に、江戸時代から甲州街道最大の宿場町で絹織物の産地として栄えていた「八王子」まで甲武鉄道が延伸されました。

その後、立川~八王子間に「日野」「豊田」駅ができ、中野~境間に「荻窪」駅が誕生しました。

当時の吉祥寺は、1893年(明治26年)4月1日に、北多摩郡・南多摩郡・西多摩郡が神奈川県から東京府へ移管されました。

以降、東京府北多摩郡武蔵野村大字吉祥寺となったタイミングです。

1~5駅目1889年(明治22年)4月11日新宿、中野、境(現在の武蔵境)、国分寺、立川
6駅目1889年(明治22年)8月11日八王子
7駅目1890年(明治23年)1月6日日野
8駅目1891年(明治24年)12月21日荻窪

15駅目として「吉祥寺」駅が開業

1894年(明治27年)7月25日~1895年(明治28年)4月17日は、日清戦争を行っていた年です。

その年とかぶるように、牛込~ 新宿駅間が延伸開業した1894年(明治27年)から1895年(明治28年)にかけて、「牛込」「四ツ谷」「信濃町」「市ケ谷」「飯田町」「大久保」駅が続々と誕生し、甲武鉄道は全14駅となりました。

また1899年(明治32年)12月30日に、15駅目としていよいよ「吉祥寺」駅が誕生します。

吉祥寺駅の開業に関しては、当初の案は今の駅舎よりも500mほど東の五日市街道のガードのあたりが「吉祥寺」駅になる予定でした。

しかし、近隣住民の反対もあり、今の吉祥寺駅の場所に駅舎がつくられることになります。

9~11駅目1894年(明治27年)10月9日牛込(現在の飯田橋)、四ツ谷、信濃町
12駅目1895年(明治28年)3月6日市ヶ谷
13駅目1895年(明治28年)4月3日飯田町(のちに廃駅)
14駅目1895年(明治28年)5月5日大久保
15駅目1899年(明治32年)12月30日吉祥寺

日露戦争のさなかにも中央線は延伸

1904年(明治37年)2月8日~1905年(明治38年)9月5日は、日露戦争で行われていた時代です。

その時代の前後に、中央線も延伸し次々と駅を開業していきます。

1901年(明治34年)に「豊田」駅が開業し、八王子~上野原駅間の官設鉄道の開業に伴って「浅川」駅が誕生しました。

1904年(明治37年)には「千駄ケ谷」駅ができ、御茶ノ水~飯田町駅間が延伸開業し、「御茶ノ水」駅が開業しました。

その後、1906年(明治39年)から1912年(明治45年)にかけて、「柏木」「代々木」「水道橋」、御茶ノ水~昌平橋間の延伸開業に伴って「昌平橋」駅が、昌平橋~万世橋駅間の延伸開業に伴って「万世橋」駅が開業しました。

16駅目1901年(明治34年)2月22日豊田
17駅目1901年(明治34年)8月1日浅川(現在の高尾)
18駅目1904年(明治37年)8月21日千駄ヶ谷
19駅目1904年(明治37年)12月31日御茶ノ水
20駅目1906年(明治39年)6月14日柏木(現在の東中野)
21駅目1906年(明治39年)9月23日代々木
22駅目1906年(明治39年)9月24日水道橋
23駅目
1908年(明治41年)4月19日昌平橋(のちに廃駅)
24駅目1912年(明治45年)4月1日万世橋(のちに廃駅)

大正時代|関東大震災の壊滅的被害もある中、7駅が誕生

1914年(大正3年)の、「新橋」~「上野」間を結ぶ高架鉄道の開業に伴って「東京」駅が開業しました(中央線の乗り入れは1919年から)。

中央線が乗り入れた1919年(大正8年)には「万世橋」~「東京」「阿佐ケ谷」「西荻窪」駅が誕生しています。

1923年(大正12年)9月1日に起こった関東大震災により、東京は壊滅的な被害を被りました。

しかし、震災からの復興の動きは早く、1926年(大正15年)には「武蔵小金井」「国立」駅が誕生しています。

関東大震災当時の「吉祥寺」は、地盤が固かったこともあり、それほど大きな被害が出ませんでした。

その結果、震災で家を失った多くの住民が、東京の都心から移り住んで来て人口が急増します。

この時から「吉祥寺」は、農村から住宅街、そして多くの商店や学生で賑わう街へと変貌を遂げることになりました。

25駅目1914年(大正3年)12月20日東京
26駅目1919年(大正8年)3月1日神田
27~29駅目1922年(大正11年)7月15日高円寺、阿佐ケ谷、西荻窪
30駅目1926年(大正15年)1月15日武蔵小金井
31駅目1926年(大正15年)4月1日国立

昭和時代|太平洋戦争を挟む激動の時代

太平洋戦争前と中央線

1927年(昭和2年)の大正天皇の葬儀にあたり、その陵墓である多摩御陵がある武蔵陵墓地近くに設けられた皇室専用の乗降施設として、「東浅川」駅(正式には東浅川仮停車場と称す)が開設しました。

また翌年の1928年(昭和3年)には「飯田橋」駅、1930年(昭和5年)には「三鷹」駅、1939年(昭和14年)には、八王子~高尾間に「西八王子」駅が誕生しています。

当時の吉祥寺は、1928年(昭和3年)11月10日に、武蔵野村が町制施行し、東京府北多摩郡武蔵野町大字吉祥寺となった年です。

それから6年後の1934年(昭和9年)4月1日には、帝都電鉄井の頭線の「吉祥寺」駅が開業し、2線が乗り入れる駅となりました。

2020年の今も乗り継いでいる中央線と井の頭線の2線は、90年近くも昔から乗り入れているのです。

当時の駅の様子が、以下の写真です。

帝都京王線「吉祥寺」駅南口

帝都京王線「吉祥寺」駅南口

1937年(昭和12年)には、前進座が、演劇映画研究所と集団住宅を吉祥寺に建設しました。

「創造(稽古)と生活(住居と食糧(田畑・養鶏))を統合した理想の場を得る」をコンセプトに、吉祥寺に演劇の香りを持ち込んだ創世期となります。

現在もサブカルのイメージが色濃い吉祥寺には、当時の演劇の文化の名残が残っているといえるでしょう。

32駅目1927年(昭和2年)2月7日東浅川
33駅目1928年(昭和3年)11月15日飯田橋
34駅目1930年(昭和5年)6月25日三鷹
35駅目1939年(昭和14年)4月1日
西八王子

太平洋戦争と吉祥寺

1941年(昭和16年)12月8日~1945年(昭和20年)8月15日に、太平洋戦争が起きます。

太平洋戦争さなかである、1943年(昭和18年)7月1日には、東京都制が施行され、吉祥寺は東京都北多摩郡武蔵野町大字吉祥寺となり、太平洋戦争後の、1947年(昭和22年)11月3日に、武蔵野町が市制施行し、東京都武蔵野市大字吉祥寺となります。

太平洋戦争からの復興

日本中が焦土と化した太平洋戦争からの復興の機運は高く、国鉄を先頭にした日本の鉄道会社も戦後復興の運輸インフラの中心としての復活を遂げました。

吉祥寺はというと、1962年(昭和37年)4月1日に、武蔵野市内の町名整理が行われ、今も名が残る、吉祥寺本町、吉祥寺東町、吉祥寺南町、吉祥寺北町、御殿山、中町に分割されています。

1964年の東京オリンピックが行われた年に、「東小金井」駅が誕生しています。

そして、1973年(昭和48年)には、中央線で一番新しい駅「西国分寺」が開業しています。

36駅目1964年(昭和39年)9月10日東小金井
37駅目1973年(昭和48年)4月1日西国分寺

まとめ

1889年(明治22年)に甲武鉄道が開業して以来「130年以上」にわたる中央線の歴史を見てきました。

関東大震災や東京大空襲という東京が焦土と化すような大きな災害も乗り越えて、いまでは1週間に933万人(延べ)が利用する基幹交通網として活躍しています。

130年以上の歴史の中で誕生した駅の数は「37駅」で、現在は東京~高尾間の「24駅」が、東京都心と多摩地域の各都市とを結ぶ通勤通学インフラの役割を担ってくれています。

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