山本卵やさん
平和通り中程にあった鶏卵専門店の山本キミさんは吉祥寺の生き字引と言える人でした。
戦争前、今の一実屋果物店の裏手(今ハモニカ横丁)に大きな穴ぼこがあいていてゴミ捨て場になっていました。
穴ぼこの原因を山本さんに聞きました。
明治20年頃、甲武鉄道を通すにあたって、線路部分に土を盛ったのだそうです。
その土盛りのために周辺の土地を掘って使用したその名残りの穴なのだと教えてくれました。
こんなことを知って居る人はもう誰もいません。
闇市やハモニカ横丁のことをもっと聞いておけば良かったと今更ながら残念に思っています。
写真と文:鈴木 育男(らかんスタジオ)
元町通り
昭和57年の吉祥寺元町通りです。
左には伊勢丹があります。
中央樹木の向こうは洋品のTaka Q ですが今はスギ薬局に変わっていますね。
あちこちのお店が目まぐるしく閉店開店している様子を見ると、商売の厳しさむずかしさがわかるような気がします。
その上コロナ状況やウクライナ情勢も経営を圧迫していますが親しんだお店にはいつまでも居続けていてもらいたいものです。
写真と文:鈴木 育男(らかんスタジオ)
交番付近・昭和41年
このお洒落な形の交番は公園通りと井の頭通りが交わる踏切の脇にありました。
この11年後この交番は踏切の右側高架下に移りました。
写真は昭和41年撮影ですから、中央線の高架化工事がこの辺りまで近づいて来たのでしょう工事人が二人、事前確認をしているようです。
黒い杭が並んでいますがこれは線路の下に敷いた古い枕木の柵です。
こういう柵は日本中の鉄道境によく見ることができました。
正面の「サービス協会」と書いた看板の店舗付近も現在大きく様がわりしています。
こうして記憶の町は消え去り忘れ去られる町になって行くんですね。
中道通りの大銀杏(おおいちょう)
ユニクロから中道通りに入って50〜60メートル右手にこの大銀杏はありました。
近年中道通りは人通りが増えお店も増えてきましたがここ佐藤さんのところだけが昔のままでホッとする一遇でした。ある時この木が丸坊主にされてしまいました。
佐藤さんに聞いたら「ギンナン豊作で大枝が重みで折れ下に駐車していた顧客の新車に当たって損害を与えたんで伐った」とのこと。
中道通りのシンボル的な大銀杏が無残な姿になったある日、見知らぬ人が佐藤さんに『この銀杏はお宅だけの銀杏じゃないみんなの銀杏なんだ。なぜ伐ったんだ』と文句を言って来たそうです。
四季折々皆んなこの銀杏にそれぞれの想いを寄せていたんですね。
池で泳ぐ
ここは井の頭公園ボート池の一番下流のひょうたん橋のところです。
今から67年前の昭和30年に撮影したのですが、弁天様近くの井の頭プールはすでにありましたので、池で泳ぐのは禁止になっていたと思います。
でもまだ規制が緩かったのでしょう男の子たちが泳いでいました。
数えてみると8人います。
そのうち7人は坊主頭です。クリクリ坊主は戦後の苦しかった時代を象徴しているように思います。
ウエルミーシックスという6×6判の安価な蛇腹カメラで撮影しました。
御殿山文化園
井の頭公園御殿山には象のハナ子がいた動物園「文化園」がありますが、文化園の中には「北村西望彫刻館」もあります。
長崎の原爆慰霊公園の有名な長崎平和祈念像はここ御殿山で制作されました。
その原型が文化園内に展示されているほか西望先生の名作が彫刻園の内外に展示されています。
ぜひ力強い芸術作品の数々を観賞していただきたいと思います
ホープ軒。万平食堂。
吉祥寺北口駅前の現ロータリーのところは、以前ハモニカ横丁に似たような飲食店がひしめいていました。
文化都市武蔵野市の玄関口にふさわしい駅前にするため、当時の土屋市長が頑張って店舗の立ち退きを進め、駅前広場を作りました。
この写真は、ラーメンの人気店ホープ軒と小倉さん経営の万平食堂です。
現在ホープ軒はサンロード中程の横丁で盛業しています。
開かずの踏切
公園通りには「井の頭踏切」という国鉄の踏切がありました。
でも町の人たちは本当の名称を言わずに「開かずの踏切」と言っていました。
ここは中央線のほか東西線や総武線も走っているので、遮断機が下りると次に上がるまで10分以上待たされることがしばしばありました。
目の前をオレンジ色の中央線上り電車が通過して行きます。
待っている人たちは一様に諦めの表情でひたすら耐えています。
まったく通行人泣かせの踏切でした。
左上は高架線建設中の足場が組まれています。
この踏切がなくなり高架下を通れるようになるまであと1年ほどです。
1年後この辺りはロンロンの西口入り口になり雰囲気が一変します。
1964年の吉祥寺
現在はビルだらけになりましたが、東京オリンピックがあった昭和39年の吉祥寺はこんなでした。
左下の白い屋根は焼肉の「李朝苑」。
そのずっと奥のビルは丸井( 現在ドンキホーテ)。
遠くの森は井の頭公園です。
右手の屋根の上にある円錐形は「古城ビル」で、建て替えた今もトンガリ帽子がビルのシンボルになっています。
そしてその奥が吉祥寺最初のデパート「名店会館」です。
昭和49年周囲を買収して建て替え、現在の「東急百貨店」にしました。
その奥は「野村証券ビル」です。
商店のほとんどは住居兼店舗で木造2階建でした。
吉祥寺南口パークロード
南口中央線沿いのパークロードは昔は「すずらん通り」と言っていました。
パークロードと名前を変えた頃から賑やかさが増してきて、今や吉祥寺の歌舞伎町になった感じがあります。
日が暮れる頃になると華やかな電気看板に色とりどりの明かりが灯り、呼び込みの人たちも所々に立っています。
道幅が狭いところにバスが通っているので昔の北口サンロードを思い出させ危険です。
早くなんとかしなくてはいけませんね。
古くからのお店はずいぶん減りましたが「花見せんべい」が頑張っているのは嬉しいです。
「鮨藤(すしとう)」や「あんどうクリーニング」はどうしたかな。
パルコ予定地・その1
写真・昭和 53 年、平和通りらかんスタジオより撮影
写真左手の公園通り(吉祥寺通り)に野村證券、その先に東急百貨店が見えているのでどの辺りを撮影したか位置がわかると思います。
中央部分には、太平信用金庫、清水燃料、横田不動産、春木屋時計店、小美濃京染店、釜屋金物店、ふじや呉服店、真下不動産、近江屋玩具店、北海屋乾物店、春木屋洋服店、高橋金物。もみじや洋装店、吉田布団店、鳥勝、栄喜堂パン。映画館(この写真の右手に写っています)、喫茶店エルザ、ファンキーなどがありましたが立ち退き、パルコが建設されることになりました。
そして1980(昭和55)年にパルコが出店したことにより大型店が出揃い、吉祥寺の再開発工事はようやく形がついたと言えると思います。
この後も数年はビル建設の槌音が町に響いていきます。
写真と文: 鈴木育男(らかんスタジオ)
吉祥寺ダイヤ街
写真・昭和 39年、東京オリンピックで賑わっている仲町ダイヤ街
昔は武蔵野町道「七号通り」と言われていました。
戦後仲町通りとなり、仲町ダイヤ街と言われ現在はダイヤ街。吉祥寺屈指の商店街でいつも賑わっている繁華街です。写真は、東京オリンピックの年昭和39年7月に撮影しました。七夕飾りで賑わいを演出しています。空を覆うアーケードはまだありません。
ダイヤ街には呉服の「三松」。乾物の「土屋商店」。羊羹・最中の「小ざさ」。行列のメンチカツ店「サトウ」。雑貨のデパート「ロジャース」など全国的に名の知れた名店が揃っていて、親しみやすく楽しさ溢れる通りです。
写真と文:鈴木育男(らかんスタジオ)
井の頭公園プール
弁天橋のほど近くに冷たいので有名な井の頭プールがありました。
その場所で汲み上げていた井の頭の清冽な地下水を使っていたのです。
週一回のプールの水の取り替えがあるとその日の水温は16度だったと記憶しています。
飛び込み台がある25メートルプールと子供プールがあり、近隣の青少年に人気の場所でしたが、昭和
58年の夏を最後に閉鎖になり、現在は小高い築山庭園になっています。
吉祥寺ロンロン
吉祥寺の発展に火を点けたのは、高架下にできた商店街、吉祥寺ロンロンだったと言っても過言ではありません。
昭和44年12月にオープンしたロンロンは高架下の細長さゆえのロングロングからロンロンと名付けられました。
吉祥寺駅という通勤通学などの利用客の通り道でもある集客力抜群の商店街はその後次々に建設される伊勢丹、近鉄、東急、パルコなどの大型商業施設の先駆けとなったのでした。
弁財天道しるべ
五日市街道と公園通りの角にある武蔵野八幡宮に入ってすぐ左に石碑があります。
この石碑の正面には「神田御上水・井之頭辨財天」と太い字で書かれています。
これは江戸各地から井の頭の弁天様に歩いてお参りに来る人たちが道に迷わないように所々に建てられていた道標(道しるべ)のひとつなのです。
石碑の横面には「天明五年・これよりみち」と書かれています。
建てられた当初は八幡様の前側だったそうですが、五日市街道の道路拡幅で公園通り踏切脇に移動させられました。
それが国鉄の高架線工事のため都管轄の小金井公園に移されていました。
それを吉祥寺の有志が熱心に東京都と交渉して再び吉祥寺に取り戻したのです。
北口駅前の変遷
吉祥寺北口駅前の正面の変化を見てみましょう。
仲見世商店街という看板が大きいですね。
昭和57年です。
ハモニカ横丁入り口としては1番駅に近い入り口はここです。
この右の果物屋さんはこののち三千里薬局になり、今現在は立ち食い鮨屋になっています。
隣のジョウジというコーヒー店は今富士ソバの店になっています。越後谷ボタン店は今ポヨというローストチキンの店になりました。
駅前のこの辺り一帯はお寺さんの土地で、吉祥寺で一番地代の高い場所です。
写真と文:鈴木育夫(らかんスタジオ)
武蔵通り(ツバメ通り)
この写真は、ハモニカ横町の西端の路地です。
現在は広く整備されて歩きやすくなっていますが、以前はこんなに狭くごちゃごちゃしていました。
当時はツバメパチンコ店が隆盛を極めていましたので「ツバメ通り」と呼ばれていましたが、現在名称は「武蔵通り」になっています。
終戦直後は闇市だったこの一帯は、昭和32年頃には赤提灯の飲み屋街に変わっていました。
20歳の頃私が居酒屋で飲んでいたのは芋焼酎が多く、たまには宝焼酎の梅割りやブドウ割りも飲んでいました。
合成酒も飲んでいましたが、早く今の境遇から脱出して本物の日本酒が飲めるようにもう少しリッチになりたいと憧れていました。
写真と文:鈴木 育夫(らかんスタジオ)
井の頭公園プール
弁天橋のほど近くに冷たいので有名な井の頭プールがありました。
その場所で汲み上げていた井の頭の清冽な地下水を使っていたのです。
週一回のプールの水の取り替えがあるとその日の水温は16度だったと記憶しています。
飛び込み台がある25メートルプールと子供プールがあり、近隣の青少年に人気の場所でしたが、昭和
58年の夏を最後に閉鎖になり、現在は小高い築山庭園になっています。
吉祥寺ロンロン
吉祥寺の発展に火を点けたのは、高架下にできた商店街、吉祥寺ロンロンだったと言っても過言ではありません。
昭和44年12月にオープンしたロンロンは高架下の細長さゆえのロングロングからロンロンと名付けられました。
吉祥寺駅という通勤通学などの利用客の通り道でもある集客力抜群の商店街はその後次々に建設される伊勢丹、近鉄、東急、パルコなどの大型商業施設の先駆けとなったのでした。
ユザワヤ
手作りホビー材料の大型専門店ユザワヤは、今年創業66年を迎える老舗で世界中のさまざまな材料や道具を販売しています。
以前は井の頭線吉祥寺駅ビルとして全館を売り場に使っていて、商圏は広範囲に渡っていました。
現在、写真のビルは取り壊され、輝く星のように明るい「キラリナ」と名称を改め吉祥寺の要衝にあります。
ユザワヤはそのキラリナ吉祥寺店の8階と9階で変わらずに営業しています。
またインターネット通販も行なっていて利用者も多いとのことです
写真と文:鈴木 育男(らかんスタジオ)
住所 | 武蔵野市吉祥寺本町1-4-11 |
電話番号 | 0422-21-2111 |
営業時間 | 平日 10:30~18:00 土日 10:00~18:30 ※3/16からは曜日関係なく10:00~18:00 |
定休日 | 不定休 |