吉祥寺駅前の変遷を写真付きで振り返る

前回の記事[【吉祥寺の歴史】吉祥寺駅前の再開発事業はどのようなものだったのか]では、戦後の闇市に発祥する商店街が密集し、駅前広場や幹線道路もないため混雑を極めていた吉祥寺駅前を「再開発」する機運が高まり、未来都市構想「高山案」が発表されたものの、地元の大反対によって実現には至らず、吉祥寺の「再開発」が棚上げとなってしまったところまでをご説明しました。

今回の記事では、新市長による新たな取り組みによって「再開発」案が決定して実際に実現の運びとなった経過や、その後の吉祥寺の変遷などについて、ご紹介していきます。

目次

「吉祥寺駅周辺都市計画道路」案の決定|吉祥寺駅前の変遷を振り返る

実施案

吉祥寺駅周辺都市計画道路案(実施案)※赤・青文字は筆者追記分

1963年(昭和38年)5月、 社会党所属の革新系市長として後藤喜八郎氏が武蔵野市長に就任しました。

後藤市長は、市・市議会・地元の話し合いの場として三者協議会を発足させて、吉祥寺駅前の「再開発事業」の解決を模索しました。

一方で、 国鉄 (現JR)中央線の1965年(昭和40年)からの複々線高架化計画が具体化してきて、このチャンスに乗る必要に迫られていたところ、 東京都が道路計画の実現を強く求め具体案を提示してきました。

武蔵野市議会は「市の検討してきたことが配慮されており、市の考えもこれにほぼ近い」と判断し、さらに地元の要望も踏まえた上で都案に同意。

1964年(昭和39年)10月、ついに吉祥寺駅周辺の都市計画道路が計画決定され、1966年(昭和41年)12月の事業決定を受けて、吉祥寺駅周辺の「再開発事業」が開始されることとなりました。

この実施案は、基本的には「高山案」を継承しながら、主要な街路と駅前広場という最低限の道路整備事業にとどめたもので、区画整理でなく用地買収方式とし、市有地に移転先の共同ビルを建て、商店街の建て替えは自主開発という現実的な選択でした。

1966年(昭和41年)に事業着手し、街路は1971年(昭和46年)に、市公社共同商業ビルも1972年(昭和47年)に完成し、吉祥寺のまちづくりは早期に実現することとなります。

memo

後藤 喜八郎
日本の政治家。日本社会党に所属し、東京都武蔵野市議会議員・副議長、第2代武蔵野市長を歴任した。
1960~1970年代にかけて日本各地に多く誕生した革新系首長の一人。
武蔵野市長に就任後は「市民自治」と「平和な緑と教育のまち」をスローガンに掲げた。
「市民自治」のスローガンは1971年(昭和46年)に策定された第1期武蔵野市基本構想・長期計画(コミュニティ構想)策定の際に市民を対象としたヒアリングの実施という形で盛り込まれ「武蔵野方式」として知られている。

「吉祥寺駅周辺都市計画道路」の完成|吉祥寺駅前の変遷を振り返る

「吉祥寺駅周辺の都市計画道路」の実施によって、今日我々が当たり前のように通行している「吉祥寺大通り」「本町新道」などが整備されました。

吉祥寺大通り

吉祥寺大通り

南北の基幹道路として位置付けられた「吉祥寺大通り」の用地の確保については、駅前広場の分の用地も含まれていましたが、広場以外の道路部分は地権者の協力がスムーズに得られ、早期に解決することができました。

1971年(昭和46年)3月には、五日市街道から末広通りまでの区間が開通し、用地買収の遅れや 工事価格の上昇などで手間取りながらも1977年(昭和52年)11月には井の頭通りまでが貫通しました。

この「吉祥寺大通り」ができたおかげで、これまでバス通りでもあった「吉祥寺駅北ロ商店街(通称:吉祥寺駅前通り)」がアーケード化されて、今日の「吉祥寺サンロード商店街」が誕生しました。

駅前広場造成費用の分担をめぐっては国鉄との激しい交渉の末、 国鉄余剰地を確保することができました。

本町新道

本町新道.

東西の基幹道路は完全な新設道路で、「東京女子体操音楽学校」跡地ビルの前面道路として期待されていました。

難関だった墓地の移転を終え、 1971年(昭和46年)11月には公園通りから「吉祥寺大通り」までが全線開通し「本町新道」となりました。

公園道り

公園通りの拡幅は、初めは反対運動が起きましたが、街の整備が進むにつれて賛成に変わっていき、東京都も厳しい予算の中、鋭意事業を進めて、1981年(昭和56年)12月、五日市街道から井の頭通りまでが完了しました。

平和通り

平和通りは、 「共同ビルに核店舗を誘致しよう」との動きが起こり、 パルコに決定してから南側の共同ビル化も進み、 ロンロンとの通路や歩道の拡幅などの課題を克服して、1987年(昭和62)年3月に駅前広場の完成と同時に整備が完了しました。

後藤市長の「回遊性の高い街づくり」構想|吉祥寺駅前の変遷を振り返る

回遊性

大型店舗の誘致にあたっては、既存の商店との兼ね合いがあるために誘致に対して消極的な場合が多いのですが、吉祥寺駅前の「再開発事業」における大型店舗の誘致施策には後藤市長「回遊性の高い街づくり」構想が活かされ、街の回遊性を高める目的のために積極的に誘致されました。

これは、吉祥寺駅を中心に既存の商店街を包む形で東西南北200mほど離れた地区にそれぞれ大型店舗を配置し、来街者の面的な回遊性を高めようとしたものです。

まずは南には「丸井(誘致当初は現在の「ドン・キホーテ」の場所にありました)」、次に北の「伊勢丹(現在のコピス吉祥寺)」が当時のF&Fビルに入居し、続けて東に「近鉄百貨店(現在の「ヨドバシカメラ」の場所)」、最後に西に「東急百貨店」が誘致されました。

これらの「伊勢丹」や「東急百貨店」などの集客力のある百貨店が駅から少し離れた場所に開店したことで、回遊性のある商業地として発展し、ショッピングの街 吉祥寺の基礎が築かれて新宿以西の最大の商業地となりました。

また、1970年(昭和45年)にはターミナルエコー(現在の「キラリナ京王吉祥寺」)が開業し、1980年代には吉祥寺パルコや吉祥寺東急イン(現在の「吉祥寺東急REIホテル」)、吉祥寺第一ホテルが次々と開業。

このようにして、戦後マーケットを含む商店街が残され、駅前広場・街路は最小限で、駅から離れた場所に大型店舖が立地し、その間は回遊性のある歩行者ネットワークが形成されました。

相次ぐ大型店の開業と商店街のアーケイド整備等につれて商業面で成功した吉祥寺駅前の「再開発事業」は、大型店と商店街が共存共栄する吉祥寺方式のまちづくり」と呼ばれて全国的な模範例となりました。

大型店舗の変遷|吉祥寺駅前の変遷を振り返る

吉祥寺駅前の「再開発事業」として1960年代から1970年代にかけて誘致されてきた大型店舗も、その後は別の場所に移動したり、あるいは経営する会社が変わって別店舗になるなど、様々なヒストリーを経て今日の吉祥寺の街を構成しています。

誘致された大型店舗の、その後の変遷を見てみましょう。

1.場所は同じですが店舗が変わっている店
・吉祥寺名店会館(1959年開業)→東急百貨店吉祥寺店(1974年開業)
・吉祥寺ロンロン(1969年開業)→アトレ吉祥寺(2010年開業)
・ターミナルエコー(1970年開業)→ユザワヤ吉祥寺店(1995年開業)→キラリナ京王吉祥寺(2014年開業)
・伊勢丹吉祥寺店(1971年開業)→コピス吉祥寺(2010年開業)
・近鉄百貨店東京店(1974年開業)→吉祥寺三越・IDC大塚家具吉祥寺ショールーム(2001年開業)→ヨドバシカメラ吉祥寺店(2007年開業)
・吉祥寺東急イン(1982年開業)→東急REIホテル(2015年にホテル名のみ変更)

2.現在も同じ場所で営業している店
・西友吉祥寺店(1968年開業)
・吉祥寺パルコ(1980年開業)
・吉祥寺第一ホテル(1987年開業)
・ユニクロ吉祥寺店(2014年開業)

3.現在の場所に移動してきた店
・丸井吉祥寺店(元々は五日市通り沿いと井の頭通り沿いの2か所で営業)

まとめ|吉祥寺駅前の変遷を振り返る

例えば新宿や渋谷などの他の繁華街の場合は、気になるスポットが街の中の特定のエリアに点在している印象があるのに対して、吉祥寺の場合は東西南北どちらに向かって歩いても思わず立ち止まってしまうスポットがあちこちにあるので、街巡りの時間がいつも足りなくなってしまうなあと感じていました。

今回の記事のための調査で、新たな店の出店などが特定のエリアに偏っていない吉祥寺の街の魅力が、「再開発事業」のコンセプトである「回遊性の高い街づくり」構想の賜物であることが分かりました。

また、駅前が全て高層ビルになってしまう「高山案」が採用されなかったおかげで、「ハモニカ横丁」や狭い路地裏の名店が今日まで残っていることも、感慨深い吉祥寺の歴史だと感じました。(高山案については[【吉祥寺の歴史】吉祥寺駅前の再開発事業はどのようなものだったのか]をご覧ください)

引き続いて次回の記事では、「吉祥寺グランドデザイン2020」などの今後の吉祥寺の「再開発事情」について、探っていきたいと思います。

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