今日の吉祥寺駅周辺の概容は、昭和40年代(1965年~1974年)に武蔵野市によって行われた再開発事業によってできたということを、皆さんはご存知でしたか?
それまでの吉祥寺は、まだ戦後の闇市に発祥する商店街が密集し、「吉祥寺大通り」などの幹線道路もなく、現在の「サンロード」は人ごみの中をバスが通行している状態だったそうです。
しかし、その再開発事業も一朝一夕にでき上がった訳ではなく、様々な紆余曲折な経過を経て、現在の吉祥寺の街ができ上がったことが分かりました。
今回は、吉祥寺駅前の「再開発事業」の初回分として、再開発までの吉祥寺の歩みや再開発事業が計画された経緯、幻となった未来都市構想「高山案」などについて、ご紹介して参ります。
再開発までの吉祥寺の歩み|吉祥寺駅前の「再開発事業」開発前夜編
現在の井の頭池の周辺には、縄文時代中期から後期(今から約4,500年から3,700年前)の集落跡が発掘され、竪穴住居跡、敷石住居跡や多数の土器・石器類が出土し、武蔵野八幡宮や井の頭池の付近からは、鎌倉時代末期以降に作られた板碑(供養の石碑)が出土されているので、この時代にも人々が住んでいたようです。
江戸時代になって、原野が広がっていた武蔵野台地に玉川上水が開通し、かつては水利が悪く人跡が少なかった武蔵野台地で新田開発が盛んに行われるようになり、広大な農地へと変わっていきました。
また「井の頭恩賜公園」の中心に広がる井の頭池は、「神田上水」の水源として江戸の暮らしを支える重要な存在になり、井の頭池のほとりに建つ「弁財天」は江戸の住民から『水の神様』としての信仰を集め、当時から行楽地として人気を集めていました。
1657年(明暦3年)の明暦の大火で江戸中が焼きつくされた中で、江戸本郷元町(今の「水道橋」駅付近)にあった「吉祥寺」という寺も門前町ごと焼失し、「吉祥寺」は駒込へ移転したのですが、門前町の住民は一緒に駒込へは移ることができず、武蔵野の地に集団移住することとなり、新しい住まいを「吉祥寺村」と名づけて現在の武蔵野市東部を開墾することになりました。
1889年(明治22年)に、新宿~立川間を結ぶ「甲武鉄道」が開通し、10年後の1899年(明治39年)には15番目の駅としていよいよ吉祥寺駅が開設しました。
この吉祥寺駅の誕生が、武蔵野市域の発展に決定的な影響を与えることになり、交通の利便性が向上したことから大正時代には「東京女子大学」や「成蹊学園」などの教育施設が移転し、吉祥寺は郊外の都市としての発展を始めます。
大正12年に発生した関東大震災は、東京市の住宅や京浜地区の工場や事業所の6割から7割を倒壊・焼失させ、多くの犠牲者を出し、被害が少なかった武蔵野地域には、都心と結ばれている中央線があったことから、多くの被災者が移り住み、「郊外住宅地」という様相を急速に強めていくことになりました。
関東大震災による被災者などの転入により、郊外住宅地として整備が進められた武蔵野村は「武蔵野町」となり、郊外住宅地がいっそう広がり、近郊農村から近郊都市へと発展していきました。
1931年(昭和6年)から始まった満州事変後、日本は断続的に戦争を繰り返し、日中戦争を経て同16年12月には太平洋戦争へ突入していきます。
戦争の末期には米空軍による激しい空襲が各地であり、軍需工場が集中し特に最新鋭の航空エンジン製造工場であった「武蔵製作所」があったことから、昭和19年11月から翌20年8月までに10回以上にわたって空襲を受けました。
1945年(昭和20年)の終戦を迎えた戦後の復興期の吉祥寺駅前には、米軍の横流し品を売る店や、本来売買を禁止されている米などの統制品を売る店など、「ここに来ればなんでも揃う」といわれた闇市が立ち並び、活気にあふれていました。
昭和22年に誕生した「武蔵野市」は都営住宅や公団住宅を積極的に誘致し、緑町団地(昭和32年)、桜堤団地(昭和34年)など多くの住宅団地が誕生し、「吉祥寺」駅の利用客はさらに増加し、駅周辺には商店が集まるようになり、ベッドタウンとしての都市機能が充実していきました。
「再開発事業」計画の発案|吉祥寺駅前の「再開発事業」開発前夜編
戦後の復興が進むに従って、吉祥寺は東京近郊の住宅地として発展していきましたが、「吉祥寺」駅周辺は戦後の闇市に発祥する商店街が密集し、駅前広場や幹線道路もないため混雑を極め、その整備が早くから課題となっていました。
特に、まだ「吉祥寺大通り」ができていない当時は、吉祥寺サンロード商店街(当時は「吉祥寺駅北ロ商店街、通称:吉祥寺駅前通り」)がバス通りだったので、朝の通勤時などは人があふれてバスの通行にも不自由している状態でした。
そのため、武蔵野市議会では1951年(昭和29年) に、「吉祥寺」駅周辺について検討するための初めての特別委員会が設置されました。
さらに、1957年(昭和32年)からの旧国鉄 (現JR)中央線の複々線高架化計画が具体化したこともあり、1960年(昭和35年)には吉祥寺駅周辺都市計画調査特別委員会が、武蔵野市議会に設置されました。
またこの年、駅前にあった「東京女子体操音楽学校」の跡地の借地権が売りに出されていたため、当時の荒井源古武蔵野市長の「都市計画のために必要である」という決断により、市が約3億円で借地権を購入しました。
当時の武蔵野市の一般会計 (決算) が約12億3千万円であったことから、 この跡地の購入は大英断でしたが、現在この跡地には「コピス吉祥寺」や「武蔵野市立吉祥寺美術館}が入っている「F&Fビル」が建っています。
吉祥寺駅周辺都市計画調査特別委員会の報告を受けた武蔵野市は、「吉祥寺」駅周辺の都市改造が必要と判断し、東京大学「高山英華研究室」に都市計画の作成を依頼することとなりました。
高山英華
日本の都市計画家、建築家。東京大学工学部名誉教授。近代都市計画学の創始者。
建築系の都市計画学者で、また都市工学の先駆者として都市再開発から広く地域開発、都市防災の推進等を通しまちづくり事業に貢献し、都市計画分野に大きな足跡を残す。
東京出身、旧制成蹊高等学校を経て、東京帝国大学工学部建築学科卒。
幻となった未来都市構想「高山案」|吉祥寺駅前の「再開発事業」開発前夜編
当時の都市計画の権威であった高山英華教授の研究室が、1962年(昭和37年)3月に公表した「高山案」は、207,800平米に及ぶ広い地域を「スーパープロック」方式で整備するという画期的なものでした。
<計画の特色>
・ 商店街とは別の並行バス通り
・ 細長い駅前広場(街と分断しない)
・ 車は一方通行とし最小の道路幅
・ T字路を基本とし通過交通を排除
<課題>
・ 街路にかかる商店が多数
・ 各街区も共同建替を想定(スーパーブロック方式)
ところが、この「高山案」は駅前全体を共同高層ビル化する案で、多数の既存店舗の移転を伴い、市からの補償対策が示されないこともあり、「既存の商店街を破壊する」として地元から全面的に反対されたため実現には至らず、吉祥寺の「再開発」は棚上げとなってしまいました。
スーパープロック方式
既存の数街区を「住区」や「商業地区」などの一つの街区としてまとめてる都市計画案。
人間の歩行圏を基本として、通過交通を周辺街路で止めて地区内を独立させ、「人の領域」と「車の領域」を明確に分ける。
まとめ|吉祥寺駅前の「再開発事業」開発前夜編
「スーパープロック」方式を採用した「高山案」が、地元からの大反対を受けたために挫折してしまった吉祥寺の「再開発」は、翌年に新たに武蔵野市長に就任する後藤喜八郎市長による市・議会・地元の三者協議会の開設を待つこととなってしまいました。
しかし、立体モデルで見る「高山案」は、まるで手塚治虫が描いた幻想的な「未来都市」のようで、「こんな吉祥寺も見てみたい」と思わせる都市計画案ですが、もしこれが実現していたら「ハモニカ横丁」や様々な商店街、狭い路地や「路地裏の隠れ家店」などは吉祥寺には残っていなかったんですね。
次回の記事では、後藤新知事による再開発事業計画の実施や様々な大型店舗の誘致や変遷などについて、ご紹介させていただきます。
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