映画化で原作の設定が大いに変わる場合がある。演出の都合なのか大人の事情なのかはわからないが、佐藤多佳子作の「しゃべれどもしゃべれども」もこの類だ。
国分太一と香里奈の主演で2007年に映画化された同小説は、1997年が初出である。映画は下町・浅草を中心として描かれており江戸情緒豊かな印象があるのだが、意外なことに原作の主な舞台は吉祥寺だ。
しゃべれどもしゃべれども ストーリー
「しゃべれどもしゃべれども」佐藤 多佳子(著/文) 発行:新潮社
今昔亭三つ葉は二つ目の落語家である。師匠・小三文の内弟子として3年の前座修業を終え、吉祥寺の実家にもどり二つ目になって5年目の26歳。師匠のかばん持ちで付き添った、義理で講師を頼まれたという下北沢のカルチャースクールで、不愛想で黒猫のような美人・十河五月に出会う。
三つ葉は、二枚目だけど吃音に悩む従兄弟でテニススクールコーチの良、転校してきたクラスで関西弁をからかわれていじめにあっている小学5年生の村林のふたりを相手に、成り行きで「話し方教室」を始めることになっていた。
「会話が苦手」という十河を三つ葉は落語に誘い、こちらもまた成り行きで「話し方教室」に通うことになる。
そうこうしているうちに、野球解説者なのにマイクがあると途端に話せなくなるという元プロ野球選手の湯河原も仲間に加わる。二つ目の落語家が、吉祥寺の家で訳ありの3人に落語「まんじゅうこわい」を教えるという、珍妙な「落語教室」が始まった。
しかし、当の三つ葉は本業の芸がセコ(下手)なまま。おまけに片思いのお嬢さんには想いを伝えないうちに振られてしまうし、3人もそれぞれに問題や悩みが浮上するしで落語教室どころではない。
それぞれが生きづらさにどう立ち向かうのか。三つ葉は自分の落語を見つけられるのか。
吉祥寺や井の頭公園は、三つ葉の心象によりさまざまに、あざやかに景色を変える。軽妙な語り口とくすぐりが読み手をくすりとさせる、青春ストーリーだ。
吉祥寺駅公園口
画像:townphoto.net より
三つ葉は、両親を幼いころに亡くし、吉祥寺の家に祖母と二人で暮らしている。もともとは人形町で蕎麦屋を営んでいたのだが、祖父が死んだあとは吉祥寺の家を買い引っ越してきた。祖母は茶道の師匠。人形町の蕎麦屋の女将だったこともあり、鉄火肌の茶道の師匠だ。
そんな祖母と暮らす吉祥寺から、三つ葉は師匠の住む月島や、池袋演芸場、新宿の末廣亭、上野の鈴本演芸場(ということは、今昔亭は落語協会所属か)に通う。
吉祥寺通り
実家で食事を作るのは三つ葉だ。じいさんの亡き後、ばあさんが茶道教室ひとつで三つ葉を高校に通わせてくれた。
「夕食を頼むよ。蕗をもらったから煮とくれよ。あと、魚辰さんで何か塩焼きにするの見つくろってきてさ」というばあさんに、三つ葉は「いい気なもんだ」と買い出しに行く。「魚辰さん」は、吉祥寺通りにあった老舗の「魚初」がモデルではないのかと思ったのだが、その老舗ももう店をたたんでしまったらしい。
井の頭恩賜公園
「まあ、遊びに来るといいや。ばあさんがお茶を教えてるし、色んな人が来る。近くに大きな公園もある」と三つ葉が十河を家に誘う。祖母と一緒に暮らす実家は、どうやら井の頭公園のすぐ近くらしい。
住宅が並ぶ路地には、現代的な家の中に瀟洒な日本家屋が残る。上品な佇まいの元旅館もあり、なるほど、三つ葉の実家はこんな感じなのかもしれない。
途中で、永谷不動産が経営するホールをみつけた。永谷不動産は演芸場を経営しており、定席に出られない五代目圓楽一門会や立川流はヘビーユーザーである。
三つ葉はここで落語会を開くことはなかったのだろうか。もっとも三つ葉は落語協会所属らしいので、永谷の演芸場を借りるというのは憚られるのかもしれない。
肉あんかけチャーハン 炒王 チャオ
三つ葉の従兄弟で吃音の良が吉祥寺の家にやってきて、「肉みそチャーハンが食べたくて」というシーンがある。
「あそこは並ぶからね」というのでモデルの店があるのだろうかと探したのだが、わからなかったので肉あんかけチャーハンがイチオシだという店に入った。よる年波で肉は胃に重たい。「野菜あんかけチャーハン」にした。美味しい。大盛無料。
肉あんかけチャーハンのチャオ:東京都武蔵野市吉祥寺南町 1-5-5 吉祥寺駅南口から徒歩1分、吉祥寺駅から98m
井の頭公園の池の脇を歩く
七井ノ池に、夕日が紅に黄金にさざ波を染めていくのを、じっと眺めていた。足漕ぎボートの白鳥が、もう店じまいでつながれて、ぞろりぞろりと並んで揺れているのが、なんだか不思議なような哀れなような気がして、
この白鳥のボートにカップルで乗ると別れるというジンクスは有名だが、ちゃんと小説にもあった。失恋やセコな芸に落ち込みまくっている三つ葉が池を眺める。
池はカップルの乗ったボートで満員だ。うらやましい。(中略)…この池で恋人同士がボートに乗ると弁天様が焼き餅をやいて、きっと別れさせるというというジンクスがある。馬鹿にならないジンクスだ。
件の弁天様は池で存在感を放つ。芸人の三つ葉も何度か訪れただろう。弁天様は芸能の神様だ。
ほたる橋と玉川上水
井の頭公園には武蔵野らしい雑木林が広がる。江戸時代の頃、武蔵野はその名の通り広い広い野っ原で、見渡す限りにススキが群生していた地だったという。最大6升5合入る馬鹿でかい盃のことを「武蔵野」というが、これは「野を見尽くせない=呑みつくせない」の意味だ。
三つ葉は悩んでようやく作り上げた古典落語「茶の湯」を一門会でかけ、手ごたえをつかんだ。十河、村林、湯河原の3人は落語「まんじゅうこわい」の発表会を終えた。
泣いてしまった三つ葉はひとり、ぶらぶらと井の頭公園を歩き、やがて公園を出て「ほたる橋」を渡る。玉川上水脇を進めば、ほどなく三鷹に出る。沈丁花の香りがしたと思って振り向くと、そこには十河がいた。
「ほおずきのね、お礼を言ってないでしょ」
干上がった玉川上水に飛び込んで溺死しちまえと言われたほうが、まだ驚かなかった。
ラストシーンは、映画では隅田川の水上バスの上で繰り広げられるが、原作では夕暮れの玉川上水に沿った道の上だ。冬の木立の中、三つ葉と十河がお互いに想いを伝えるのだが、不器用なままなのでどうにもロマンチックにならない。なんだったら喧嘩腰のままである。
青春小説は、ともすれば夢見がちで感動的で、落語でいえば「サゲでござい」という結末になりがちだ。しかし、このストーリーには派手な冒険も濃厚なラブシーンもない。あるのは日常の切り取りだけ。
三つ葉と十河が向き合う場所は、下町風情でもなければ吉祥寺のおしゃれなカフェでもないし、池の上のボートでもない(ジンクスがあるし)。ただただ武蔵野の風景がひろがる地味な玉川上水沿いの道であり、それが不器用でぎこちなくて、なんとも二人らしくて微笑ましいのだ。
桜とハートの花見せんべい
ここで、おしゃれなカフェを紹介するところだろうが、三つ葉と十河のふたりがこじゃれたカフェに行くとは思えない。お茶をするのなら三つ葉の家の居間だろう。とすれば、ばあさんが淹れてくれる渋いお茶に合うものが良かろうと、おせんべいを購入した。ハートと桜の形がかわいらしい。ザラメの煎餅は甘くてしょっぱい。
花見せんべい 東京都武蔵野市吉祥寺南町1-1-5
小説が書かれた1997年から20余年が経つ。吉祥寺の景色は大きく変化した。三つ葉と十河はまだ一緒に吉祥寺にいるのだろうか。順調にいけば三つ葉は真打に昇進して、中堅の落語家として高座に上がっているだろう。十河は「よい茶人になる」というばあさんの予言通り、茶道の御免状をとったのかもしれない。
あの家にはまた色んな人が出入りして、もしかしたら弟弟子が三つ葉のもとへ稽古に来たりもしているだろう。そして一日の終わりには、あれから少しだけ落ち着いたふたりが、井の頭公園を散歩しているのだ。
文・写真(記載以外):櫻庭由紀子