「□□□寺」と駅名に「寺」がつく駅は、全国に数多くあります。当たり前の話ですが、その駅の近くには同名のお寺があります。
というよりも「昔からあったお寺の近くにできた駅が、そのお寺の寺名を拝借している」といった方が正確でしょう。
例えば東京なら、「祐天寺」駅は浄土宗『祐天寺』の近くにできた東急線の駅ですし、「豪徳寺」駅は曹洞宗『豪徳寺』の近くの小田急線の駅です。
同様にJR中央線沿線では、「高円寺」駅には曹洞宗『高円寺』が、「国分寺」駅には真言宗豊山派『武蔵国分寺』があります。
そして「吉祥寺」駅の近くには当然『吉祥寺』が……アレ、無いぞ。
どうしてこんなことが起きたのか、調べてみましょう。
『吉祥寺』が無いのに「吉祥寺」駅
「吉祥寺」駅の駅名となった『寺』は、元々は室町時代後期の「江戸城」築城の工事の際に「吉祥」と刻印された金印が掘り出されたので、太田道灌が現在の和田倉門(千代田区)のあたりに建てた『吉祥庵』が始まりといわれています。
その後、徳川時代に入ってから曹洞宗『諏訪山 吉祥寺』として江戸本郷元町(現在の「水道橋」駅付近)へと移されました。
そして1657年(明暦3年)に、「明暦の大火」によって江戸中が焦土と化し、『吉祥寺』も門前町ごと焼失してしまいました。
その後『吉祥寺』は駒込へ移転したのですが、門前町の住民は一緒に駒込へは移ることができず、今の武蔵野の地に集団移住することとなりましたが、自分たちの新しい住まいに「吉祥寺村」と名づけたのです。
つまり「吉祥寺」というのは「移住してくる前に住んでいた、懐かしい門前町の『寺』の名前を残した地名」だったのです。
このような「近くに□□□が無い□□□駅」は、他にもあるのでしょうか。
「明暦の大火」は、1657年(明暦3年)の3月2日から4日にかけて起きた火災で、外堀以内のほぼ全域、天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失し、「ローマ大火」「ロンドン大火」と合わせて「世界三大大火」ともいわれる大火災です。
また、想いを残して死んだ娘の振袖を焼いて供養した時に、その振袖が空に舞い上がって火元となったという伝承から、「振袖火事」とも呼ばれてています。
駅名に残る大学の思い出
東急東横線「学芸大学」駅
東急東横線にある「学芸大学」駅は、1927年(昭和2年)に「碑文谷」駅として開業しました。
その後、1936年(昭和11年)に近くに移転してきた「東京第一師範学校」が、1949年(昭和24年)に新制大学『東京学芸大学』となったため、1952年(昭和27年)に駅名を「学芸大学」駅に改称しました。
当時は文字通り『東京学芸大学』がある「学芸大学」駅だったのですが、その『東京学芸大学』は1964年(昭和39年)に小金井市へと移転してしまいました。
現在も付属高校の「東京学芸大学附属高等学校」が最寄り駅として現存していますが、『東京学芸大学』は無い「学芸大学」駅となっています。
東急東横線「都立大学」駅
「学芸大学」駅の隣りの「都立大学」駅も、同様の運命をたどってきた駅です。
1927年(昭和2年)に「柿の木坂」駅として開業し、1932年(昭和7年)に移転して来た「府立高等学校」が、1949年(昭和24年)に新制大学『東京都立大学』となったため、1952年(昭和27年)に駅名を「都立大学」駅に改称しました。
しかし「学芸大学」駅と同様に、『東京都立大学』は1991年(平成3年)に広大な用地が確保できる多摩ニュータウンへ移転してしまい、『東京都立大学』は無い「都立大学」駅となってしまいました。
移転の時期は違いますが、同じ東横線の隣同士の駅の駅名が、ほぼ同じ運命をたどってきたということですね。
大遊園地の花時計の思い出
小田急線「向ヶ丘遊園」駅
小田急線の「向ヶ丘遊園」駅は、1927年(昭和2年)に「多摩川」を見下ろす丘陵地にできた大遊園地『向ヶ丘遊園』の入り口の駅として同年に開業しました。
「多摩丘陵」の緑豊かな自然を生かした「花と緑の遊園地」として親しまれ、当時は東洋一とされた「ばら苑」も有名でした。
しかしこの『向ヶ丘遊園』も、2002年(平成14年)に惜しまれつつ閉園し、跡地には2008年(平成20年)に「藤子・F・不二雄ミュージアム」が建てられました。
かつての『向ヶ丘遊園』は、川崎市の施設として残った「ばら苑」と共に、駅名「向ヶ丘遊園」として残っています。
そういえば、2020年8月31日をもって閉園した「としまえん」の名前も、西武豊島線「豊島園」駅の駅名として残っていくのでしょうか。
東京や神奈川の小学校に通っていた昭和生まれの方は、遊園地のシンボルだった「花の大階段」の「花時計」の前で撮った遠足の写真が、実家を探せば必ず見つかるはずです。
【番外編】町名に残る大劇場の計画
新宿「歌舞伎町」
日本を代表する歓楽街として世界中に知られていて、最近では中国の広東省にそっくりの通りが出現したことでも話題になっている「歌舞伎町」。でもこの街に、歌舞伎と接点があるものは見当たりません。
実はこの町名は、計画で終わってしまった幻の劇場の名残なんです。
1945年(昭和20年)の東京大空襲で一面焼け野原となった新宿の街ですが、戦後に地元の有力者たちの間で「歌舞伎の演舞場を建設し、これを中核として芸能施設を集め、新東京の最も健全な家庭センターを建設する」という復興事業案が立てられ、劇場名「菊座」と新しい町名「歌舞伎町」が決まりました。
しかしその後、財政面の問題などからこの歌舞伎劇場の建設は中止となってしまったのですが、いったん決めてしまった町名を変えるわけにもいかず、「歌舞伎町」は歌舞伎劇場がないまま発展し、現在の日本一の歓楽街となったのです。
まとめ
移転してしまった大学名が残る駅名や、閉園してしまった遊園地名が残る駅名がある中で、『幻の劇場』の計画が今に残る「歌舞伎町」という町名はかなり異色ですね。
そしてまた、大火事で住むところを失って全く知らない土地に移住させられて、荒れ野であった武蔵野を一から開墾するにあたって、自分たちは一緒に移住できなかった寺の『かつての門前町の思い出』を新たな地名として残した「吉祥寺」の住民たちの想いは、どのようなものだったのでしょうか。
「近くに□□□が無い□□□駅」を調べてみたら、色々なドラマが見えてきたような気がします。