「住みたい街ランキング」では常に上位に君臨し、「サブカルチャーの発信地」として人気を集め
ている「吉祥寺」は、昔から人が集まる街だったのでしょうか?
そもそも「吉祥寺」という寺は無いのに、どうして街の名前は「吉祥寺」なの?
「吉祥寺」に関する謎を解き明かすために、今回は「吉祥寺の歴史」を調べてみましょう。
水を求めて人が集まった武蔵野台地
現在の井の頭池の周辺には、生活にはなくてはならない水を求めて太古から人が住むようになり、縄文時代中期から後期(今から約4,500年から3,700年前)の集落跡が発掘され、竪穴住居跡、敷石住居跡や多数の土器・石器類が出土しました。
武蔵野八幡宮や井の頭池の付近からは、鎌倉時代末期以降に作られた板碑(供養の石碑)が出土されており、この時代にも人々が住んでいたことが推測されます。
江戸時代になって、原野が広がっていた武蔵野台地に玉川上水が開通し、かつては水利が悪く人跡が少なかった武蔵野台地で新田開発が盛んに行われるようになり、広大な農地へと変わっていきました。
また「井の頭恩賜公園」の中心に広がる井の頭池は、「神田上水」の水源として江戸の暮らしを支える重要な存在になり、井の頭池のほとりに建つ「弁財天」は江戸の住民から『水の神様』としての信仰を集め、当時から行楽地として人気を集めていました。
「明暦の大火」による「吉祥寺」門前町の住民の移住
1657年(明暦3年)の明暦の大火で江戸中が焼きつくされた中で、江戸本郷元町(今の「水道橋」駅付近)にあった「吉祥寺」という寺も門前町ごと焼失しました。
その後「吉祥寺」は駒込へ移転したのですが、門前町の住民は一緒に駒込へは移ることができず、武蔵野の地に集団移住することとなり、新しい住まいを「吉祥寺村」と名づけて現在の武蔵野市東部を開墾することになりました。
「明暦の大火」は、1657年(明暦3年)の3月2日から4日にかけて起きた火災で、外堀以内のほぼ全域、天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失し、「ローマ大火」「ロンドン大火」と合わせて「世界三大大火」ともいわれる大火災です。
また、想いを残して死んだ娘の振袖を焼いて供養した時に、その振袖が空に舞い上がって火元となったという伝承から、「振袖火事」とも呼ばれてています。
農村「武蔵野村」を大きく変えた鉄道の開通
1889年(明治22年)の市制町村制の施行にともない、吉祥寺・西窪・関前・境の4カ村と井口新田の飛び地とが合併して「武蔵野村」が誕生し、神奈川県の管轄で「神奈川県北多摩郡武蔵野村」となりました。
その後、1893年(明治26年)には、西多摩・南多摩の2郡とともに、東京府へ移管されることになり「東京府北多摩郡武蔵野村」となりました。
1889年(明治22年)に、新宿~立川間を結ぶ「甲武鉄道」が開通し、10年後の1899年(明治39年)には15番目の駅としていよいよ「吉祥寺」駅が開設しました。
この「吉祥寺」駅の誕生が、武蔵野市域の発展に決定的な影響を与えることになり、交通の利便性が向上したことから大正時代には「東京女子大学」や「成蹊学園」などの教育施設が移転し、吉祥寺は郊外の都市としての発展を始めます。
あわせて読みたい!
関東大震災後の人口の増大、農村から郊外住宅地、軍需工業地帯へ
大正12年に発生した関東大震災は、東京市の住宅や京浜地区の工場や事業所の6割から7割を倒壊・焼失させ、多くの犠牲者を出し、被害が少なかった武蔵野地域に対しても大きな影響を及ぼしました。
特に吉祥寺が属する武蔵野村には、都心と結ばれている中央線があったことから、多くの被災者が移り住み、「郊外住宅地」という様相を急速に強めていくことになりました。
1924年(大正13年)には、成蹊学園が池袋から移転するなど、人口は急激な増加をみせます。
関東大震災による被災者などの転入により、郊外住宅地として整備が進められた武蔵野村は、人口の増大にともなって昭和3年に町制をしいて「武蔵野町」となりました。
その後の武蔵野町は郊外住宅地がいっそう広がり、近郊農村から近郊都市へと発展していきました。
さらに昭和5年の計測器メーカーである「横河電機製作所」、昭和13年の「中島飛行機株式会社 武蔵野製作所(のちに武蔵製作所)」やその下請け工場などの軍需工場の建設が相次ぎ、日本の戦時体制にともなって「軍需工業地帯」へと変貌していきました。
「関東大震災」は、1923年(大正12年)9月1日の午前11時58分32秒ごろ発生した、「マグニチュード7.9」と推定される大地震です。
全半壊、焼失、流失、埋没などの被害を受けた住宅は計37万棟に達し、地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから136件の火災が発生し、死者・行方不明者が10万5千人以上という、史上最大規模の被害をもたらしました。
太平洋戦争と戦後の復興
1931年(昭和6年)から始まった満州事変後、日本は断続的に戦争を繰り返し、日中戦争を経て同16年12月には太平洋戦争へ突入していきます。
戦争の末期には米空軍による激しい空襲が各地であり、軍需工場が集中し特に最新鋭の航空エンジン製造工場であった「武蔵製作所」があったことから、昭和19年11月から翌20年8月までに10回以上にわたって空襲を受けました。
そのため、武蔵野町から疎開する住民も多く、昭和19年には6万人弱だった人口が、終戦時には44万人強まで減少してしまいました。
1945年(昭和20年)の終戦を迎えた戦後の復興期の「吉祥寺」駅前には、米軍の横流し品を売る店や、本来売買を禁止されている米などの統制品を売る店など、「ここに来ればなんでも揃う」といわれた「闇市」が立ち並び、活気にあふれていました。
昭和22年に誕生した「武蔵野市」は都営住宅や公団住宅を積極的に誘致し、緑町団地(昭和32年)、桜堤団地(昭和34年)など多くの住宅団地が誕生しました。
「吉祥寺」駅の利用客はさらに増加し、駅周辺には商店が集まるようになり、ベッドタウンとしての都市機能が充実していきました。
「ハモニカ横丁」の誕生
荒廃した「吉祥寺」駅前にできた「闇市」は、街全体が近代化される中で駅前広場のために闇市起源の商店街が整理されるなどして「トリミング」されることにより、入り組んだ細い路地の中に小ぢんまりとした商店が混沌と立ち並ぶ様が「古き良き昭和の面影を残している」と愛されている「ハモニカ横丁」として残りました。
2000年代に入り「ハモニカキッチン」をはじめとするモダンな飲食店が相次いでオープンし、レトロな佇まいを残す横丁に、モダンなデザインのカフェやバーが登場し、新旧が一体となった新感覚の空間へと進化して「吉祥寺を象徴するスポット」のひとつとなっています。
「ハモニカ横丁」の名前は、武蔵野市に在住していた作家の亀井勝一郎が、100件ほどの小さな店舗が立ち並ぶ様を「楽器のハーモニカの吹き口」に例えたことから由来しているといわれています。
再開発によって商業都市、サブカルチャーの発信地へ
戦後の復興が進み高度経済成長期になると「吉祥寺」駅の利用客はさらに増加し、街の活気は増してきました。
中央線の高架化と合わせて「吉祥寺」駅周辺の再開発が計画され、1964年(昭和39)年に都市計画が決定して実施された「吉祥寺」は、商業都市へと大きく変貌を遂げることになります。
その後も大規模ショッピング施設が続々と誕生し、ターミナル駅へのアクセスもよい街として「住みたい街人気ランキング」でトップに選ばれる街へと成長しました。
1970年代には周辺の整備も進み、東急百貨店やパルコ、マルイなどが進出。商業施設が充実し、ターミナル駅へのアクセスもよい街として、「住みたい街人気ランキング」でトップに選ばれる街へと成長しました。
戦後の闇市跡のハーモニカ横丁やジャズに代表される音楽、そして、マンガなどのサブカルチャー。歩けばカフェに出合うほどのカフェ文化、老舗からニュータイプの味まで網羅するグルメなど、多彩な個性がひしめき合っています。
その他多くの小説やドラマ、マンガの舞台になり、ディープな話題は尽きません
戦前から演劇、映画が根付いていた「吉祥寺」は、戦後になって「ジャズ喫茶」や「ライブハウス」などが増えていき、1970年代からは、ジャズやロック、フォークなど音楽の街として知られています。
さらに、近隣に漫画家が多く住んでいたり、アニメ制作会社が数多く構えているなどの環境も相まって、「サブカルチャーの発信地」として人気を集めています。
<参考>
■むさしの百年物語(武蔵野市)
http://www.city.musashino.lg.jp/shisei_joho/musashino_profile/hyakunenmonogatari/index.html