ハモニカ横丁の歴史と繁栄の背景とは?

ハモニカ横丁といえば、吉祥寺駅前にある、レトロな飲み屋街と答える人も多いのではないだろうか。

ハモニカ横丁は、戦後のヤミ市が起源となっており、何もないところから徐々に建物の骨格が作られていき、現在の長屋式商店街となった。

一歩足を踏み入れると、ひしめき合う小さな店舗の軒並みに、昭和の雰囲気を感じさせるものもあれば、若者向きのモダンな造りの建物の建築もある。

倒壊を待つ、ただの古い建物の集合体ではなく、今も新旧世代交代を重ね、新陳代謝をし、独自の魅力を発し続けて、なお愛され、新しい顧客を生み出している場所だ。

今だに多くの人が行き交い、愛される場所であるハモニカ横丁には、入ると飲み込まれ、迷い込んだような錯覚に陥る瞬間がある。そこには、路地・横丁の空間特性があった。

それが、私たちを包んで魅了する、横丁の魅力のひとつだった。

そして、ハモニカ横丁には、存続に関わる人々の、熱い想いがあった。

目次

ハモニカ横丁は4つの商店街がまとまった姿だった

ハモニカ横丁

ハモニカ横丁は、その大きな区画一帯を、ハモニカ横丁と呼んでいる。ハモニカ横丁は、正式名称「吉祥寺北口駅前商店街連合会」といい、実は、4つの商店街から成り立っている。

祥和会

戦後、テキ屋組織に占領されていた一帯だった。飲み屋が多く、終戦直後はのみや横丁と呼ばれていた。この一帯は、特徴的に間口の狭い店が多く、その間口の狭い建物が、軒を連ねている様子が、ハーモニカの吹き口を思わせた。

そのためここら辺一帯をハモニカ横丁と呼んでいたが、それが広がり、横丁全体をハモニカ横丁と呼ぶようになった。

朝日通り商店街

戦後、主に中国人の勢力が強かった商店街だった。そのため中華料理屋や、パチンコが多かった。現在、大きなパチスロ店があったこともあり、この歴史が関係している。

この商店街に長い間「第一アサヒ」というパチンコ屋が存在したことから「朝日通り」というネーミングになった。

中央通り商店街

あまり歴史的特色はないが、この商店街には、モダンレトロな新規参入系の居酒屋が多く、そのおかげで、ハモニカ横丁にモダンな雰囲気をもたらしているのは、この商店街の存在が大きい。モダン担当商店街だ。

仲見世通り商店街

戦前から商店街があった地域で、戦時中に建物疎開となった際に、当時あったお店は、基礎を残して立ち退いた。終戦後、残された建物の基礎を生かし、そこに店舗を建築した。唯一協同組合、法人化されている。

通路の幅員が最も広く、水道などのインフラがあまり整っていないため、飲み屋が少なく、落ちついた雰囲気を作り上げている商店街である。

ハモニカ横丁に商店街が存在し、その商店街ごとに特色があることを知ると、ますます横丁を歩く楽しみが増えるだろう。

歩くだけで楽しめるハモニカ横丁の理由、占有スペースのゆるい決まり

ハモニカ横丁に連なる店舗は、その軒先の通路を、店舗敷地の一部と解釈し、通路を有効に利用している。

横丁内の通路は「交通機能を持った空間」というよりは、各々店のための「多目的オープンスペース」としての機能を持っている。

 

例えば、ある飲み屋の前の花屋は、夕方に店を閉める。その閉まった軒先を、その後の時間に営業を開始する飲み屋の敷地として、お客が座れるスペースにして使っている。

 

ある靴屋は、夕方から開く飲み屋の前に位置しているため、閉まっている飲み屋の店舗の前に、ずらりと靴を並べてしまう。通りを歩く人は、あたかも店の中を歩いているような錯覚に襲われ、ここが店舗の外とは気づかないかもしれない。

 

こうすることで、ハモニカ横丁内は、通路と店舗敷地が混同し、通路と店舗敷地の境界線を失う。そのことが、横丁内の一体感が生んでいると言える。これが歩くだけで、楽しめるハモニカ横丁の大きな要因となっている。

 

唯一無二の個性を大切にしているから、今だに多くのひとに愛されるハモニカ横丁

吉祥寺の街全体には、地元の店もあれば、もちろんチェーン店も多い。

吉祥寺の街では、毎日多くの人が、買い物や仕事の活動をしている。そのため、広い世代から受け入れられる店舗というのは必要だろう。

 

しかし、ハモニカ横丁に訪れる人々は、どこにでもあるような、ありふれた店は望んでいないはずである。ハモニカ横丁と未知の遭遇をした人々は、横丁内の店になんらかの期待をしつつ横丁を歩いているに違いない。

 

実際、横丁内を歩く人々を観察していると、1つ1つの店を通り過ぎるたびに何らかの期待感を持って、覗き込むかのように店内を見渡している。

 

ハモニカ横丁の魅力は、ただ単にレトロとか、アミューズメント性があるというだけではない。横丁内に、個性的な店が集結していることも、大きな要因なのである。歴史的経緯だけみても、十分に話題性のあるハモニカ横丁とはいえ、実態は商店街である。

 

横丁にある店が、現在良い商売をしていなければ、マスコミも取り上げようがない。つまりそこが、「レトロな路地の商店街」である前に、「個性のある商品を売る店が連なる商店街」であるということが、最も重要な要因といえる。

 

ヤミ市時代10代だった人ももう70代

2005年に、ハモニカ横丁で、戦後から50年以上続くラーメン店の店主が、体調を崩され、店に立てなくなった。普通であればその後、他の人に店舗を貸し、家賃収入を得るケースが多い。

 

ところがそのラーメン店では、店に立てなくなった店主の娘が、当時20年以上勤めていた会社を辞め、母に代わって店にたち、閉店することなく店を続けている。

 

また、戦後から続く漬物店でも、店主の孫も店に立つようになり、現店主引退後の店の存続を確実なものにしている。こうしたことの積み重ねにより、戦後から続くハモニカ横丁特有のコミュニティを継承し世代交代を成している。

 

店を閉めたくない、初代の想いか、閉めたくない子世代の想いか、そこに交錯する、ハモニカ横丁への愛情を伺い知ることができる。

 

チームハモニカ

ハモニカ横丁には商店街組織とは別に、「チームハモニカ」と呼ばれる組織がある。

「吉祥寺駅前商店街連合会」と呼ばれる商店街組織は、借地権を所有しつつ、現役で商売をしている経営者数人と、大部分は、以前商売をしていて、現在では家主となって、家賃収入を得る人々によって構成されている。

 

そのため、実際に商売をしている人の声は、なかなか商店街組織としての活動に反映されないという側面があった。そこで地権者であるかないかには関わらず、現在実際に商売をしている人たちによって、チームハモニカが組織された。

 

この組織は、横丁に、女性にも気に行ってもらえるよう、花の植木鉢を横丁内にも置いたり、ワンコインバザー、ハーモニカ演奏会、朝市などを企画し、ハモニカ横丁が繁盛するように活動を続けている。

 

戦後のヤミ市時代からの経営者、その2世、そして外部から来た店の店主、もしくは店員で構成されている。

戦後のヤミ市時代から、ハモニカ横丁を見てきて、強い思い入れを持って、ハモニカ横丁を心から愛している経営者と、最近になってハモニカ横丁で商売を始めた人との共同作業だ。

 

新参は古参からハモニカ横丁の歴史を教わり、ハモニカ横丁の愛情を感じる中で、また新たなリーダーシップを持った若き経営者が育っていく。

そのハモニカ横丁への深い愛情の継承がなくならないことを願うばかりだ。

 

おわりに

レトロでノスタルジックな雰囲気に、つい足を踏み入れてしまう、ハモニカ横丁。慣れない頃は、連なる店先を、こわごわ拝見しながら、通りを横断していた。

いまや、よく知る店がいくつもでき、居心地の良い空間となった。

そこには、長い歴史があることを知らなかった。

倒壊を待つ、ただの古い建物の集合体ではなく、今も新旧世代交代を重ね、新陳代謝をし、独自の魅力を発し続けて、なお愛され、新しい顧客を生み出している場所だった。

そこにあったのは、店主たちによって継承されていく、ハモニカ横丁への愛と熱意だった。多種多様が混在した、このなんとも言えない異空間。

吉祥寺が存在する限り、このハモニカ横丁を、熱い店主たちの想いによって、継承していってほしいと願ってやまない。

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