「縄文時代から現在までの吉祥寺の歴史」でもご紹介しましたが、吉祥寺が今日の発展を迎えるにあたっては、明暦の大火や鉄道の敷設、太平洋戦争と戦後の復興など、いくつかの大きな社会的な出来事が原因となって、そのつど大きな転換期を迎えてきました。
今回は、その中でも未曽有の大災害となった「関東大震災」と吉祥寺の関係について解説します。
村から「郊外の街」へと変わりつつあった吉祥寺
出典:三井住友トラスト不動産
1657年(明暦3年)の「明暦の大火」で江戸中が焼き出され、江戸本郷元町「吉祥寺」の門前町の住民が武蔵野に移住して誕生した「吉祥寺村」は、明治になって他の村と合併して「北多摩郡武蔵野村」となりました。
1889年(明治22年)に、新宿~立川間を結ぶ「甲武鉄道」が開通し、10年後の1899年(明治39年)には15番目の駅としていよいよ「吉祥寺」駅が開設。
この「吉祥寺」駅の誕生によって交通の利便性が向上したことから、大正時代には「東京女子大学」や「成蹊学園」などの教育施設が移転し、吉祥寺は郊外の都市としての発展を始めます。
「明暦の大火」は、1657年(明暦3年)の3月2日から4日にかけて起きた火災で、外堀以内のほぼ全域、天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失し、「ローマ大火」「ロンドン大火」と合わせて「世界三大大火」ともいわれる大火災です。
また、想いを残して死んだ娘の振袖を焼いて供養した時に、その振袖が空に舞い上がって火元となったという伝承から、「振袖火事」とも呼ばれてています。
東京市内の約6割の家屋が罹災した「関東大震災」
1923年(大正12年)9月1日の11時58分32秒ごろ、南関東を中心に「マグニチュード7.9(推定)」の巨大地震が発生しました。
地震の振動による建物の倒壊等による被害もさることながら、ちょうど昼食の用意をしていた家庭の炊事の火が原因となった火災が136件発生しました。
おりからの日本海沿岸を北上する台風に吹き込む強風が関東地方に吹き込んでいたため、木造住宅が密集していた当時の東京では火災が広範囲に広がってしまいました。
鎮火したのは40時間以上経過した2日後の9月3日10時ごろとみられ、東京市(今の23区に相当)の住宅や京浜地区の工場や事業所の6割から7割を倒壊・焼失させ、多くの犠牲者を出す未曽有の大災害となりました。
■関東大震災の被害(推定)
被災者:190万人
死者・行方不明者数:10万5,000人
全壊(住宅):約10万9,000棟
全焼(住宅):約21万2,000棟
近郊農村から近郊都市へ
「関東大震災」は東京市内に壊滅的な被害をもたらしましたが、地盤が固い「武蔵野台地」に位置する吉祥寺や周辺の地区は、幸いにもそれほど大きな被害が出ませんでした。
都心と結ばれている中央線があった「武蔵野村」には、多くの被災者が移り住んでくることになり、人口もどんどん増加していきました(大正11年の人口:5,200余人、昭和2年の人口:11,500余人)。
そして、人口の増大にともなって、1928年(昭和3年)には町制をしいて「武蔵野町」となり、郊外住宅地がいっそう広がり、近郊農村から近郊都市へと発展していったのです。
1922年(大正11年)末には、農業か農業と兼業する商人や職人が大部分を占めていたと考えられる武蔵野村も、1927年(昭和2年)末には、世帯数の半数前後が勤め人層となり、商業やサービス業に従事する世帯も増加しました。
さらに「軍需工業地帯」へ
近郊都市へと発展していった武蔵野町に新たに起こったのは、日本の戦時体制に伴う軍需工場の建設でした。
1930年(昭和5年)には計測器メーカーである「横河電機製作所」、1938年(昭和13年)には「中島飛行機株式会社 武蔵野製作所」やその下請け工場などの軍需工場の建設が相次ぎ、「軍需工業地帯」へと変貌していきました。
横河電機は、1920年(大正9年)に創業した工業計器・プロセス制御専業メーカー。
計測・制御機器メーカーとしては国内最大手で、世界第6位。
太平洋戦争中、軍需により急成長し、終戦時は1万人の従業員を擁していました。
中島飛行機株式会社は、1917年(大正6年)から1945年(昭和20年)まで存在した日本の航空機・航空エンジンメーカー。
エンジンや機体の開発を独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、第二次世界大戦終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メーカーでした。
戦後には財閥解体を経て、「スバル360」を産み出した自動車メーカー「富士重工業」となりました。
まとめ
江戸本郷元町の「吉祥寺」の門前町の住民が、武蔵野に移住することになった原因が「明暦の大火」であり、吉祥寺村が近郊都市へと発展するきっかけとなったのが「関東大震災」だったというのは、なんとも皮肉な歴史のイタズラです。
いずれにしても「被害が少なくて、都内へ通える鉄道も通っている」という武蔵野の地が、生まれ育った土地を焼け出された東京市民にとっては、絶好の移住先だったということだったんですね。