吉祥寺と関わり深い「中央線がきれいな直線区間になっている」謎について、明治時代の中央線開通計画に遡り、解明していきます!
「吉祥寺」を通っている鉄道路線、中央線の「東中野~立川間」の区間が「約25kmのきれいな直線区間」だということにお気づきだろうか?
通常の鉄道路線を決める際には、昔からある街道に沿って敷設したり、土地の起伏に合わせて路線を決めるので、なかなか直線にはならないものなのが、何故か中央線は奇妙なほど「きれいな直線区間」の路線だ。
日本中のどこの鉄道路線図を見ても、このような「きれいな直線区間」はほとんどなく、本州では最長の直線区間だ。
北海道の室蘭本線の白老(しらおい)駅から沼ノ端(ぬまのはた)駅間の「28.7km」が、日本一長い直線区間とされている。
この記事では、中央線の「東中野~立川間」が約25kmのきれいな直線区間になった謎を、中央線の歴史を遡りながら、紐解いていく。
住民の反対で断念した「街道沿い」ルート
中央線が「きれいな直線区間」になったきっかけを知るには、中央線開通計画のはじまった1889年に時間を戻す必要がある。
1889年(明治22年)現在の中央線の前身、甲武鉄道(1906年に国有化された私鉄会社)の「新宿~立川間」が開業した。
甲武鉄道は、当初「多くの乗客や貨物輸送が見込める街道沿いに線路を敷きたい」と考えて、新宿から立川までを甲州街道沿いに線路を引くことを計画したようだ。
「東海道」「中山道」「日光街道」「奥州街道」と共に「五街道」として江戸時代の基幹街道であった「甲州街道」には、44次の宿場町が置かれていました。その中で「新宿~立川間」には、「下高井戸宿(杉並区)」「上高井戸宿(杉並区)」「国領宿(調布市)」「下布田宿(調布市)」「上布田宿(調布市)」「下石原宿(調布市)」「上石原宿(調布市)」「府中宿(府中市)」の8つ宿場町があり、旅人が宿泊する旅籠(旅館)や休憩場である茶屋が、大勢の旅人で賑わった。
しかし、「汽車から出る煙で肺病になる」「火花が屋根に飛んで火事になる」とか、また宿場街の宿の経営者からは「旅人が宿泊しなくなってしまう」などの住民からの反対運動が起きて、甲州街道ルートは断念することになる。
それではということで、北側の青梅街道沿いの検討に移ったのだが、こちらも住民の反対の声が大きく、南北ともに諦めざるを得ない状況になってしまった。
新宿から青梅市を経由して甲府市に至る「青梅街道」は、徳川家康が江戸幕府を開いたのちに江戸城を造営するための石灰を江戸へ運ぶために拓かれ、旅人やを抱えた行商人や馬が行き交う街道として賑わっていた。「新宿~立川間」の宿場町としては、「中野宿(中野区)」「田無宿(西東京市)」「小川宿(小平市)]などが置かれた。
怒りの一筆が引いた「25kmの直線」
当時、甲武鉄道からすれば、沿線住民の利益になると思っていた提案が、住民から予想外の反発をくらってしまうまさかの事態だ。
甲武鉄道の工事担当者は、甲州街道沿い、青梅街道沿いとの議論も進まず、頭を抱えていた。
何度考えても良案は見つからず、ついには怒り心頭に達して、地図上に「えいやっ」と一直線の赤線を引いたのだ。
これが「東中野~立川間」の約25kmの直線ルートになった理由だ。
この工事担当者は、のちに筑豊鉄道社や九州鉄道の社長を務め、鉄道院総裁から衆議院議員となり、加藤高明内閣では鉄道大臣にまでなった仙石貢という人物だ。
仙石貢が「きれいな直線区間」を決めたという説は、1951年発行の「鉄道黎明の人々(青木槐三著)」の中の「雷親父仙石が武蔵野の原だ、これでいいと地図の上にグーンと太い鉛筆の線をひいた」という記述が根拠となっている。それ以外にも「蒸気機関車の能力、燃料供給、土地買収などから地理的に最も合理的なルートを選んだ」「勾配など地理的条件、コスト面などから20キロメートル以上の直線は作る側にとって最も理想なルート」などの諸説があるようだ。
つまり、現在の中央線「新宿~立川間」がきれいな直線区間である理由は、工事担当者の仙石貢が、地図上に「えいやっ」と乱暴に書いた直線がそのまま路線になったからである。
500m東寄りのはずだった「吉祥寺」駅
「吉祥寺」駅は、1899年(明治32年)に甲武鉄道の15番目の駅として開業した。
当初の案では、五日市街道と交差している本宿地区に駅を開設しようという計画だったそうだが、こちらも地元の反対にあって断念せざるを得なかった。
もし当初の予定通りにできていたら、今の駅舎よりも500mほど東の五日市街道のガードのあたりが「吉祥寺」駅となっていた。
そもそも吉祥寺の歴史は、江戸時代の明暦の大火(1661年)で焼け出された本郷の吉祥寺の門前町の住人が、武蔵野の原野を開拓して入植したのが始まりで、その際に吉祥寺の門前にあった四軒の寺(安養寺・光専寺・蓮乗寺・月窓寺)も一緒に移ってきて、原野の開拓者の一員として周辺に広大な土地を所有していた。
そこで、五日市街道沿いの住人の反対にあって困った甲武鉄道は「四軒寺」に協力のお願いをして、四軒寺のうちの「月窓寺」「蓮乗寺」「光専寺」の所有地であった現在の場所に「吉祥寺」駅を開設することができた。
ちなみに「吉祥寺」駅北口の「サンロード」や「ハモニカ横丁」一帯の土地はいまだに月窓寺の所有地で、商店主は月窓寺の土地を借りて営業しているそうだ。
中央線沿線の繁栄と宿場町の衰退
1923年(大正12年)に起きた関東大震災のために東京市内は壊滅状態となり、家を求めた多くの人々が中央線沿線に流れ込むようになった。
サラリーマンだけでなく、金銭的な余裕のないプロレタリア系文士や文化人もたくさん住むようになったのだ。
太宰治、井伏鱒二、与謝野鉄幹・晶子夫妻、川端康成、横光利一、大宅壮一などの多くの文士が都心から居を移し、無名作家や編集者たちまで、有名な文士だけでも200名以上が住み暮らし、サロン文化が花咲いた。
太宰治はよく歩いて三鷹から吉祥寺に来ていて、『斜陽』で主人公のかず子が太宰らしき上原という作家と吉祥寺の飲み屋に行き、その晩は吉祥寺の友達の画家の家に泊まる場面が出てくる。
今では吉祥寺、阿佐ヶ谷、高円寺、中野などはクリエイターやアーティストたちが集まってカルチャーの種をまいている「サブカルタウン」として、人々が押し寄せる文化的なスポットへと育ったのだ。
一方で、中央線の開通を拒んだ甲州街道や青梅街道沿いの活気あふれていた宿場町は衰退していく。
甲州街道や青梅街道沿いの住民は、一面の原野と桑畑だった今の中央線沿線が繁栄していく様子を、どんな気持ちで見ていたのだろうか。
中央線の開業から、遅れること約20年の大正2年(1913年)に、京王電気軌道(現在の京王線)が甲州街道沿いに開業する。
中央線に、追いつけ追い越せとばかりに駅舎周辺が整備されていった。
その結果、中央線・京王線のどちらの路線からもアクセスできる「吉祥寺」は、より活気が溢れる街に変わっていったのだ。
K.マルクスとF.エンゲルスの共著「共産党宣言」の中で使われて広まった「プロレタリアート(賃金労働者)」の立場に立って、虐げられた労働者の直面する厳しい現実を描いた文学作品が大正末期から昭和初期にかけて次々に発表され、「プロレタリア文学」と呼ばれる。
代表的な作品としては、小林多喜二『蟹工船』、葉山嘉樹『セメント樽の中の手紙』、葉山嘉樹『海に生くる人々』、徳永直『太陽のない街』などが挙げられる。
歴史の教訓「目先の利益か?将来の繁栄か?」
甲州街道や青梅街道沿いの住民は、鉄道の敷設がもたらす「将来の繁栄」をイメージすることができずに、目先の「煙い」「うるさい」「旅人が泊まらなくなってしまう」というデメリットばかりを考えて、幹線鉄道沿線の発展のチャンスを逃してしまったのだ。
「歴史に『if(もしも)』は無い」と言われるが、あえて「もしも甲州街道沿いの住民が甲武鉄道の敷設を認めていたら?」と想像してみると、今日の中央線沿いと京王線沿いの街の発展が全く逆で、「調布や府中が『住みたい街』ランキングの上位を占める大ショッピングゾーン」だったかもしれない。