吉祥寺の街と切っても切り離せない「サブカルチャー文化」の中で、今回は音楽に着目してみました。
ジャズクラブや、ライブハウスがたくさんあり、ギターケースを担いで歩く人を目にすることも多く、それぞれのスポットで色々なジャンルの演奏を聴くことができる吉祥寺ですが、かつては「Jazzの街」とか「フォークの街」とか呼ばれていた時代があったことはご存知ですか。
吉祥寺がそれぞれのジャンルの『聖地』と呼ばれていたころの歴史を調べてみましたので、中心だった人物やスポットも絡めて、紹介します。
サブカルチャー
絵画・彫刻・工芸などの伝統的な芸術、クラシック音楽、純文学、俳句、短歌、能・歌舞伎・浄瑠璃・落語など古典演劇に対して、比較的新しいジャンルの文化全般を指す呼称。
演劇に対する映画、クラシックに対するジャズやロック、絵画に対する漫画やアニメなど。
「Jazzの街」だった1960年代|吉祥寺は「音楽の街」だった
1960年(昭和35年)、高校生だった野口伊織氏の提案により、両親が経営する吉祥寺の純喫茶の地下に、ジャズ喫茶「ファンキー」が誕生しました。
「ファンキー」は、1966年(昭和41年)には3階建てに改装され、地下1階・1階はおしゃべり厳禁のシリアスなジャズ喫茶、2階をジャズボーカルアルバム専門のサロン的なバーとなり、それぞれのフロアーに異なったオーデイオを配置した本格的なジャズ喫茶として、吉祥寺のジャズ喫茶ブームの先駆けとなりました。
野口氏は、その後も「be bop」「out back」「赤毛とそばかす」「西洋乞食」「SOMETIME」などのジャス喫茶を吉祥寺界隈に次々と開店させ、著名なジャズ評論家である寺島靖国氏がジャズ喫茶「Meg(メグ)」「モア」「スクラッチ」「A&F」を開業。
1960年代(~1970年代)の吉祥寺はJazzの街と呼ばれるようになり、都内や近県からジャズファンが押しかける街となりました。
吉祥寺の父とも、吉祥寺を創った伝説の男とも呼ばれるようになった野口氏は、その後も「レモンドロップ」「OLD CROW」「蔵」「金の猿」などの飲食店を次々と開業し、レストラン、バー、和食、居酒屋、喫茶店、ケーキ店など幅広いジャンルの店を吉祥寺を中心に30軒以上開きましたが、2001年(平成13年)惜しくも脳腫瘍で亡くなりました。
多くの趣味を持ち社交的だった野口氏の58歳という早すぎる死は、多くの友人、関係者から惜しまれましたが、現在は奥さんの野口満理子さんが氏の遺志を引き継いで事業を継承しています。
ちなみに筆者は、今はジャズも良く聴きますが、まだロック少年だった高校生のころに「SOMETIME」に行ったことがあり、その『大人っぽい』雰囲気に感動したことを思い出しました。「SOMETIME」でもらったステッカーをギターケースに貼り、今でも使っています。
野口伊織
1942年(昭和17年)東京生まれ。 1959年(昭和34年)に銀座から吉祥寺に移り住み、翌年、両親が経営する喫茶店の地下に、当時高校生の伊織が提案し、ジャズ喫茶「ファンキー」が誕生。
幅広いジャンルの飲食店を30軒以上開き、「吉祥寺の父」とも「吉祥寺を創った伝説の男」とも呼ばれていたが、2001年(平成13年)惜しまれつつ他界。
「フォークの街」だった1970年代|吉祥寺は「音楽の街」だった
闘争が活発化してきた日本では、社会的、政治的メッセージの色濃い反戦歌などを自作自演で歌うシンガー・ソングライターが続々と誕生し、いわゆる「フォークソング・ブーム」が巻き起こっていました。
1970年(昭和45年)10月28日、藤村女子高校の右隣の小さなビルの3階に、約12坪の小さなカフェが開店。
こここそが、「伝説のライブハウス」「’70年代カウンターカルチャーの拠点」といわれた「BLUES HALL/武蔵野火薬庫 ぐゎらん堂」です。
早稲田大学の放送研究会で出会った村瀬春樹、ゆみこ・ながい・むらせの両氏が、学生運動の衰退による敗北感に打ちのめされた当時の心境「心の中が虚しい→空っぽ→がらんどう」から命名した「ぐゎらん堂」は、連日連夜様々なレコードをかける居酒屋でもありました。
やがて「ぐゎらん堂」には、ミュージシャン、詩人、作家、画家、編集者、漫画家、写真家、映像作家、演劇人、舞踏家、落語家とその卵たちなどの多様な人々が集まるようになりました。
毎週水曜日にフォーク、ロックを中心にライブ演奏が行われ、その回数は1985年(昭和60年)10月の閉店までには500回を超え、延べ観客数は50万人以上を数えたそうです。
特に、高田渡、シバ、友部正人、あがた森魚、三上寛、なぎら健壱などのフォークシンガーが集まる店となり、彼らが深夜まで大騒ぎをして、ライブの日でもないのに楽器を取り出してセッションをするようになり、「フォークソングの聖地」とまで呼ばれるようになりました。
当時高校生だった筆者の周りでは、「あの店に行けば、フォークシンガーに会える」という伝説が広まっていました。
フォークソング
1.音楽のジャンルの一つで、元来は民謡や民俗音楽を指す。
2.米国で生まれた民謡から派生したポピュラー音楽で、民衆の素朴な情感や、現代の社会問題、反戦思想などを歌うものが多い。
反戦歌
戦争に対する抗議、反戦運動のメッセージを歌詞に込めた楽曲の総称。
「Rockの街」だった1980年代|吉祥寺は「音楽の街」だった
現在吉祥寺には約20軒のライブハウスがありますが、その草分けともいえる「曼荼羅(まんだら)」は、1974年(昭和49年)に吉祥寺駅南口のパークロード沿いにオープンしました。
日本で二番目に、東京では一番古いライブハウスとして、長きに渡り音楽好きが集う場を提供してきた「曼荼羅」は、『ライブハウス』という言葉自体の発祥地としても全国の音楽ファンに広く知られています。
現在、曼荼羅グループは、「曼荼羅」の他にも、吉祥寺に「MANDA-LA2」「STAR PINE’S CAFE」「ROCK JOINT GB」の3つのライブハウス、「Studio Leda」「Studio α Veg」の2つのリハーサルスタジオを展開し、さらに外苑前に『南青山MANDALA』をオープンして、多くの表現の場を提供しています。
オープン当初はロックに限らず様々なジャンルのライブを行っていたそうですが、1970年代末から1980年代にかけてはロックが中心となり、いつのまにか「フォーク系はぐゎらん堂」「 ロック系は曼荼羅」という感じで吉祥寺の中で住み分けらるようになり、「ロックの街」吉祥寺の顔となるスポットとして連日多くの客を集めていたそうです。
「曼荼羅」を登竜門としてデビューしたミュージシャンの代表としては「RCサクセション」が挙げられます。彼らがメジャーになる直前の1970年代の終わり、アコギのトリオからバンドに変わった時期に最初は日曜の昼の部に出演し、 その後演奏するたびに観客が増えていって、 音楽もドンドン刺激的になっていきました。
「さよなら人類」がヒットした「たま」も、 まったく無名の頃に「曼荼羅」に出て、「面白いから毎月やれば」とスタッフが提案して、ライブを重ねるごとに観客が増えていって「曼荼羅」では手狭になったころ、 1987年に「MANDA-LA2」がオープンしたので、 そっちに移動してもらい、ちょうど「イカ天」でチャンピオンになった時期でもあって、毎回ものすごい数の客が押し寄せて来たそうです。
イカ天
1989年(昭和64年)2月から1990年(平成2年)12月にかけて、深夜番組の1コーナーとして放送された、TBS制作の音楽バラエティ番組『三宅裕司のいかすバンド天国』の略称。
毎回10組のアマチュアバンドが登場して勝ち残っていくシステムで、FLYING KIDS、BEGIN、たま、BLANKEY JET CITYなどの数多くのバンドを輩出した。
■LIVE HOUSE 曼荼羅
住所 | 東京都武蔵野市吉祥寺南町1-5-2 |
交通アクセス | 「吉祥寺」駅南改札(公園口)より徒歩2分(パークロード沿い) |
電話番号 | 0422-48-5003 |
営業時間 | 10:00~15:00、16:00~23:00(イベントによって、Open/Startは異なります) |
キャパシティ | スタンディング:約100名 椅子:約60名 |
まとめ|吉祥寺は「音楽の街」だった
音楽を聴くためのメディアが、かつてのようなLPやCDの購入から、DL配信やストーリーミングサービスなどへと広がり、音楽の好みも多様化している現在では、今回の記事でご紹介した「□□□の街」のように特定のジャンルの音楽が街に溢れるという光景はもう見られないかも知れません。
しかし、様々なジャンルの演奏が聴けるライブハウスが20軒近くある吉祥寺が、「音楽の街」でもあることは、これからも変わらないのではないでしょうか。
毎年ゴールデンウィークに「吉祥寺駅北口駅前広場」や「井の頭公園野外ステージ」で、様々なバンドのコンサートが繰り広げられる「吉祥寺音楽祭」は、2020年は新型コロナウイルスの影響により開催中止となってしまいましたが、2021年にはぜひ開催して欲しいと祈るばかりです。
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