ギャルと吉祥寺
「東京で住むとしたらどこ?」
教室の頃の友達と話したことがある。
私の地元は九州の田舎で且つ、通っていた学校は400段もの階段を登った先に校舎があるような山の中…いや、山の上だった。しかも、この学校は校則がかなり厳しい。
でもその友達は、このクソ田舎の山の上の校則が厳しい高校で、学年で唯一髪を染め、つけまつげをする、所謂…ギャルだった。
友達が登校して、私の名前を甲高い声で叫びながら近づいてくると、いつも鼻の奥がツンとした。
あれは、多分、ミスディオールの香水だった。
彼女と私は何故か波長が合った。一つの共通点があったからかもしれない。
私達は、どうしようもなく、’東京”に憧れていたのだ。
「私はとりあえず渋谷かなぁ?七海は?」友達は言った。
「…吉祥寺」
吉祥寺は、私の想像の中で無性に香った。
カフェが沢山あって、美容院もあって、可愛い人やカッコいい人が溢れている吉祥寺。
ザ・東京。
その街を颯爽と歩く自分達を想像すると幸せな気持ちになった。
「2人で上京して、絶対吉祥寺に行こう。」
あんなに憧れていたのにどうしてだろう。
東京に来て2年間程、吉祥寺に足を踏み入れることは無かった。
友達が地元で親の仕事を継ぐことになったからだろうか。
そもそもあの後、友達が退学し、私は受験勉強が忙しくなり、約束をした事さえ…いや、友達の記憶さえ薄れていた。
ある日、大学と反対の路線の電車に乗りたくなった。終点は、吉祥寺。
吉祥寺は、私達の想像していた街ではなかった。
もちろんお洒落な街ではある。カフェもあるし、美容院もある。かわいい人もかっこいい人も…まぁ、いるっちゃいる。
でもなんだろう、この不思議と東京を押し付けてこない感じは。
そこには馴染みの草や木があった。
都会の中に自然が存在し、人と人が楽しそうに触れ合い、温かかった。
どこか懐かしかった。
なんだか泣きたくなったのを覚えてる。
そして、やはり吉祥寺は香った。
鼻の奥がツンとする。
ミスディオールの香りとすれ違った、気がした。
(TOP写真撮影 : NATSUME TEZUKA)
泣かない妹は病気なのか
私には、歳の離れた妹がいる。
妹は、昔からとにかくぼーっとしていて、感情の起伏があまり無い様に見える。
特に、悲しくて泣くという事が全くと言っていいほど、無い。
産まれた時もあまり泣かなかったらしい。
注射を挿しても泣かない。
どんなに泣ける映画やドラマを観ても泣かない。
あのタイタニックを観たときも、私や母が号泣しているのを見て爆笑した。
失恋で泣いたことも無い。(そもそも人を好きになったことが無いらしい)
卒業式のDVDで、涙を流す生徒たちの中で一人ヘラヘラしている妹が映っているのは本当に恐怖映像だ。
爆笑して泣いていることを除いて、妹の涙を見れる機会が無いのだ。
この子は変なんじゃないか?
母親と私はかなり心配していた。
特に私の家族はかなり泣上戸なので、そんな人が存在する事が不思議で不可解。
病気なんじゃ無いかと不安になった。
お爺ちゃんだけは、妹の心配をしていなかった。
お爺ちゃんは、能天気なうちの家系で唯一、厳格で、勉強家のお堅い人だった。
机の上の物の位置がいつも同じ人だった。
ジャズが好きで、部屋で仕事をするときいつもレコードが回っていた。
そんなお爺ちゃんが私も妹も大好きで、人間としてもかなり興味があった。と言っても、妹はまだ小さかったのだが。
私に至ってはお爺ちゃんみたいになりたいな、と思っていた位だ。
「ひなこは泣ける映画を観ても泣かないんだよ。大丈夫かな笑」と聞いたことを覚えている。
そんなお爺ちゃんが、数年後、病気で植物状態になった。
上京していた私は、妹と飛行機に乗って地元の病院に駆けつけた。
沢山の管に繋がれて、一生懸命息をしている変わり果てたお爺ちゃんがいた。
私は堪らなくなって、帰りの車で嗚咽しながらぐちゃぐちゃに泣いた。
そんな時も妹は、泣いていなかった。
ただ私の背中をさすりながら窓の外を眺めていた。
お爺ちゃんのお葬式。
夢の中のようだった。映画やドラマで見てきた事が現実に起こって、実感が全く湧かなかった。
その日は何故か、泣きたくなかった。
号泣している母を見て、私は泣いてはだめな気がした。
お棺の横に家族で並んでいるとき、横にいる妹が私のスーツの裾をきゅっと握ってきた。
全身の振動と嗚咽が伝わってくるから見なくても分かった。
あの時のお爺ちゃんの返事が頭を過った。
「本当に泣きたい時に泣けばいい」
妹は相当な強がりだったよお爺ちゃん。
この文章を書きながら、「あの時泣いてたよね?」と聞いても妹は、笑いながら「泣いてないよ」と答える。
私は、未だに妹の泣き顔を見られていないらしい。
百円ちょうだいおじさん
小学生の頃、変わったおじさんの変質者が頻繁に出没し、帰りの会で先生から注意喚起されていた。
私たちはそのおじさんのことを“百円ちょうだいおじさん”と呼んでいた。
この、“百円ちょうだいおじさん”は、下校の時間に突然現れ、手のひらをこちらに差し出し、「百円ちょうだい」と何度も連呼して小学生に百円をねだるのだ。
私はまだ“百円ちょうだいおじさん”に遭遇出来ずにいた。
ある日、私の親友りえちゃんも“百円ちょうだいおじさん”に遭遇した。
遂に来たか、と思った。
「本当に怖かった!私、名札を隠して叫んで、走って逃げたんだ!」
“百円ちょうだいおじさん”に会うと、みんなその時の自分の武勇伝を話すのが流行りになっていた。
「私が遭遇したら、絶対に戦うよ!多分ボコボコにする」
当時、私はなぜか自分が最強だという妄想に駆られている痛い小学生だった。
なので、“百円ちょうだいおじさん”に遭遇する想像の中で私は“百円ちょうだいおじさん”をコテンパンにしていた。
終業式が終わり、明日から夏休みという最高の日に、私は兎に角早く家に帰りたくて帰りの挨拶が終わった瞬間に、一人で教室を飛び出した。
画性の無い私は、朝顔の鉢や、書道の道具箱、絵の具セットなど、大荷物を持ってガタガタとうるさい音を立てながら家路を急いでいた。
すると、向こう側から、ボロボロの白いTシャツを着たお爺さんが歩いてきて、私の道を塞ぎ、右の手のひらをこちらに差し出した。
「百円ちょうだい。」
ついに出会ってしまった。
「おじさんじゃなくてお爺さんだったから」
「よりによって、1人で帰っているタイミングだったから」…
最強であるはずの自分の足が恐怖で震えて、冷や汗が止まらない事への言い訳を小さな頭の中で沢山沢山並べた。
私は、コテンパンにする妄想通りにいかない自分に突然腹が立ち、悲しくなり、自分最強説が崩れた瞬間、涙が出てきた。大号泣だ。
そして、目水鼻水を垂らしながら私は言った。
「働いてください!!!!」
今でもなぜあんなことを叫んだのかわからない。
精一杯の反抗だったのだろう。
すると、“百円ちょうだいおじさん”は、「ごめんね」と一言寂しげに呟き、違う道をトボトボと歩いて行った。
その時の“百円ちょうだいおじさん”の表情は朝顔の鉢でよく見えなかった。
長い夏休みが終わり、“百円ちょうだいおじさん”のブームは終わっていた。
私のせっかくの武勇伝は何の意味も為さなかった。
“百円ちょうだいおじさん”は、何がしたかったのか?未だに謎は残るままだ。
大人になった今でも、夏が来るたびに思い出すのが甘酸っぱい素敵な思い出ではなく、“百円ちょうだいおじさん”の寂しげな声なのが、少し嫌だ。
そして今、“百円ちょうだいおじさん”という長い名前を途中で省略すればよかったなと少し後悔している。